キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

「飽き」について その2 先が見えちゃう的な

飽きの重大な要素として、たぶん「うんざりしちゃう」ってがあるとおもう。

あくまで、てめえのためのメモの2つ目。

 

前エントリーでほざいたの(前に課題が山積してる)とは逆。

「おめえの技はもう見切った」

「あああ、もうそういうのはいいから!」

的な。

 

 

発信側?はおそらく成功体験?を踏まえたりだとか、新機軸のオリジナリティみたいな感じで繰り出してきてるんだろうケド。

なので、よかれとおもってんだろうケド。

 

受信側? としては、でもね。。。っていう。

共感性羞恥ってえの? 観察者羞恥ってえの?

見ちゃらんねえわっていう。

 

あ、ここで言わんとしてる「飽き」とはちょっと似て非なるぶぶんもあるが。

いわゆる一発屋の芸人のブーム終末期ににてるかも知んない。

 

あれだな! 既視感だな!

(てめえではひらめいたていだけど、ただの言い換えでやっぱ話は一歩も進んでねえわぇ。。。)

 

 

これについてものすことになったきっかけを具体的に挙げるわけにはゆかないから、きょうもやっぱコウ、雲をつかむような観念的な物言いになっちゃうわけだが。

 

そういうのに、心底、飽きてる。

で、なまじっか既視感があるもんだから、発信側?の野心? ヤマっ気? がよけい浮き彫りになっちゃって(るような気がして)、共感性羞恥か観察者羞恥しかない。

 

って、やっぱ話が一歩も進んでねえな。

 

 

あ、いちおう言っとくと。

こんな文句たらたらにするつもりは当初なく。

いきおいで書いてたら、どんどんどんどん「あ、言わんとしてることからはずれてってる」っておもいつつ、軌道修正できねえ感じになっちゃったのが現状。

 

なう。

 

 

かたや。

おんなじような様式美? を何度見せられてもよくって。

それを「キタキタキター! いつもありがとうございます!」ってなることもあるじゃん?

水戸黄門が「偉大なるマンネリ」ってむしろ称賛の要因になる機微とかね。

 

キクチはバカだから。

ソレとコレの違いを簡潔にわかりやすく説明する道具を持ち合わせてないってだけだ。

 

主観で、いっぽうは「!!!」、もういっぽうは「ええ!? またそういうの見せられんの!?」ってなる違いってなんだろね? だけ。

 

 

なので。

そういう、ある種の予定調和が繰り返されることじたいを忌避してるわけではない。

 

たとえば、ウタゲ。

「メンツを募って→酒場で→クダを巻く」

って、大きく括ると百年一日でしかない。

 

あまつさえ、毎度記憶があやしくなるほど召し上がって。

あまつさえあまつさえ、記憶があやふやなのをいいことに、おそらく毎度おんなじ話をして盛り上がってる(んだろう)。

まさに、百年一日。

 

でいて、それを「飽き」もせず何度も楽しんでる。

よしんば、ごく前のめりにそうなりに行ってる。

その機微って、何なんだろうな!!!!

 

獅子身中の虫っつうか。

大いなる自己矛盾っていうか。

「さてはおめえ、機微だの獅子身中だの、そうやってテキトーにコムズかしいっぽいぺらっぺらな文言をもちだしてドロンしようとしてやがるな!」っていうか。

 

もうね、上記で見当違いで不必要なポイズンを撒き散らかしちゃったんじゃねえかおれ?って、希釈に必死すぎるのみててつらいわw

ここにきてね、「観察者なんたら」符合ミラクル!!!!

 

 

。。。

 

 

そんなんわけで。

言わんとしてることを、等身大で/過不足なく/何人たりとも嫌な気分にさせない伝え方するって、ほんっとうにむつかしいわできねえわあって反省しきりなんだが。

 

てめえのためのメモ的には、なんとなくモヤモヤが晴れたからまあいいや。

ちゃんちゃん。