理屈や理由づけなんてすべて後付けなんだよねっておもいましたとさという話。
あ、だからといって、すべての理由や理屈づけが後付けというわけではない。
とか言うと言葉遊びじみてるが、そうではない。
コムズかしいこと言おうとしてるわけでもない。
ちょっとネガティブなことは言おうとしておる。
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キクチはこうもんみえても。
じかに会うと実はブログほど偏屈でもうっとうしくもない、わりといいやつなんだが。
(ソースは完全な主観、自己評価な)
(あ、「ただしお酒を飲まなければ」な。。。)
そんな自称マイルドにんげんでも、
「一口ちょうだい」だけはどうしてもちょっとなあで。
理屈ではなく、ちょっとなあなもんはちょっとなあだからしようがない。
ヒトサマと飯を食いに行って、場がシェア前提みたいな雰囲気に包まれてたりするとこの世の終わりみたいな気分になれる。
で、「一口ちょうだい」がちょっとなあなのは間違いものの。
ココ(↑)に書いてあることとも、てめえとは少しズレてる。
距離の詰められ方とか衛生面とか、相手によるとか、じぶん分を確保したいとか、それが侵される感とか、頭のなかのペース配分が乱されるとか。
言われてみればそんな気もする、つまり要素としてなくはないのかもだケド決定打に欠けるというか、そういうことではない。
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たとえば。
シェアの最たるというか、みんなで焼肉とか鍋・おでんをつつくのはわりと積極的にすきだし。
バイキング? ブッフェ? のワクワク感もわりと積極的にすきだし。
なんなら、「コレ、ちょっと食べてみて」をやることすらある。
あと、たとえば「相手による」でいえば。
にょうぼうはわりと一口ちょうだい側のにんげんなんだけど、キクチはそれがたまらなくイヤなので意思表示をする。
(でいて、強靭なメンタルのもちぬしなもんだから、めげずにいまでもガンガンクルw しまつにおえない)
つまり、一口ちょうだいは相手にはよらないってことで。
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だからといって、アレですよ。
こちとら、ムダに長く生きてるうちにミジンコレベルにせよ社会性は身につけてきたから。
あからさまにイヤな顔は(にょうぼう以外には)しないし、そういうことだと割り切って受け流しもする。
それとて別に嫌われたくないとかじゃなく、なんというか、たしかにじぶんにとっては一大事だけど相対的にそう大したことじゃねえじゃん程度のことゆえ。
(期せずしてダジャレ!!!)
そもそも、たんじゅんに文化の違いでしかないのだから。
受け入れがたくはあっても、そういう文化もあるものだとナチュラルにおもっておる。
「そういうのは理屈や理由じゃない」なんてほざいておきながら、だいぶん理屈っぺえなキクチ!!!
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で、そうそう。
理屈や理由じゃなく、ちょっとなあだからしようがないわけですよ。
○○ハラとおんなじようなすたっらくちゃーで。
受信側(おれ)がちょっとなあとおもっちゃうってことは、やっぱちょっとなあだからしようがない。
すんげえ誇大なことほざくと。
よしんばキクチが「誰かの命を救う」という客観的にはほぼ完璧にいいことをしたとして。
でもそのひとに「キクチにっていうのが生理的に許容できん」って言われたら、客観的にほぼ完璧にいいことが瞬時に○○ハラにチェーンジするわけでしょ。
あああ、キクチかあ。。。ってんで。
そのひとがキクチをそれほど毛嫌いするのは、こちらのコントロール外。
そこにはたぶん、理屈や理由はないはずで。
あったとしても、(キクチがよっぽどのことをそのひとにしたとかじゃないければ)(あ、キクチたぶんいままでヒトサマにそんなことしたことねえよ、おそらく)
理屈や理由は後付けなはずで。
臭いとかキモいとかブサイクとかムカツくとかうっとうしいとか、つまんねえとかいつまで厨二だよとかは、たぶん二次的なものに過ぎなくて。
もっと根深いものがあるんだろうからしようがあんめえな。
ただの例え話なのに勝手にちょっと凹んだのでよす。
自家発電恐るべし。
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ひとつあるとすれば。
「一口ちょうだいがイヤだっていうのは偏狭だ」みたいな空気感になるじゃん?
でも、えっ! ちょっと待って? おれはどうしてもイヤだっつってんのに、それを表明すること自体が悪なの? じゃどうすりゃいいんだべさ? とはおもう。
まあいいや。
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そう、フィーリングなのよフィーリング。
「好き」も突き詰めると理屈や理由なんて実はなくって、フィーリングなように。
で、最近ですね、フィーリングについて1ケ、世紀の大発見をして。
これがまたなかなかおもしれえテーマだなとじぶんではおもってんだけど、いまんとこ開陳するかどうかは未定。
しかし、そろそろ走んなくちゃな。