その薄く浅い藤原氏のおべんきょうのなかで。
いまんとこいちばん衝撃を受けたのは、天平の疫病大流行だ。
ときは737年。
ってことは所期の目的。
泣くよウグイス平安京がまだ遠い未来ぇ。。。
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中臣鎌足が大化の改新などにからんで名をあげ、藤原を名乗れるようになり。
その子、藤原不比等が皇族・政治にがっつりからんで勢力を拡大する。
んで、不比等の4人の息子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂(藤原四子)が高官を独占して?、藤原氏の権勢を盤石のものにしたかとおもいきや。
737年、疫病(天然痘)が大流行し。
4人とも死んじゃう。
。。。
ってのは中高生の頃、歴史の授業で聞いたおぼえがあって。
まあ、歴史の授業、とりわけこのころって血で血を洗う権力闘争のすくつだから。
そのあとも橘なんちゃらとか藤原の子孫とか、歴代天皇とか、女帝が寵愛した巨根僧侶とかが出てくるのも含め、「その次は誰が権力を握って何をした」程度しか、当時追ってなかったんだけど。
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その、737年の天然痘大流行。
権力の中枢にいた4人がいきなり死んじゃうってだけでも相当なことだし。
これってすげくね?(↓)
ある推計によれば、当時の日本の総人口の25 – 35パーセントにあたる、100万 – 150万人が感染により死亡したとされている。
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「これってすげくね?」は。
総人口の25〜35%が死んじゃったってことはとりもなおさず。
それが100万〜150万人ってことは、当時の日本の人口って400万人だったのね! ってことで。
まあ、当時の戸籍制度がどの程度の精度だったのかだとか、人口としてカウントしてた地域がどこらへんの範囲まで網羅してたのかってのは措いても。
400万人って、横浜市に毛が生えたようなもんじゃん?
それで一国を担ってたって、ビビる。
GDPっていうかなんていうか、あらゆる生産量が現在と圧倒的に違うから。
いまとおんなじスケールで物事を考えたとしたら、噛み合うわけねえでさあな。
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横浜つながりでまったく関係ねえ情報をぶっこむと、これもなかなか興味深え。
横浜市より人口の少ない府県 pic.twitter.com/hAlYzWwNzY
— 地面 (@Jimengeo) 2024年1月11日
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話を戻すと。
中高生の歴史の授業的には。
この疫病の大流行がきっかけで、平和を祈念するために?東大寺の大仏が建立されたり。
農民の生産力を保障するために?墾田永年私財法(てめえで開墾した土地は半永久的にそのひとの土地として認める的なことだっけ?)が定められたりしたんだけど。
その事実は歴史の授業で知ってはいたけど。
「400万人ぽっちのうち100万〜150万もの人が死んじゃった一大事が背景にある」ってことがわかれば、納得度が爆上がりするってもん。
っていうか、そんな超絶パンデミック。
なんでコロナのときすら、ひとつも話題に上らなかったんだろう?
まあいい。
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で、おまけに。
「ほんとかよ?」っておもったのは。
30数年後の770年には、人口がもとの数に戻り。
8世紀末には540万〜590万人になった、という記録があるということ。
「人口=出生数ー死亡者数」だから
尺度とかいろいろ違うかもしんないけど。
現代に照らし合わせると。
キクチが生まれた団塊ジュニア世代は第2次ベビーブームで、新生児が200万人を大きく超えてた。
それがムスメっこが生まれた30年後には新生児が激減して100万ちょっとになってた。
(去年だかおととしは80何万にまで減ってるという)
それがさらに30年後、200万人を超え。
そのまた30年後には、300万人とかそういうふうになる。
なんて、ありえますかね?
ぐらい、信じがたいことではある。
ひそかに当時「いいからとにかくみんなやりまくろうぜ法案」が仮に内閣立法で成立したとしても、だいぶムリゲーじゃね?
そういうのもこういうのもひっくるめて。
藤原氏が跋扈する前後の時代にまだまだ興味が尽きねえ!