いや、その。
戦後70年とかいって、「語り継ぐ」みたいなこという。
すごい昔のことみたいになっちゃってるケド
おれが小さいころは、
親よりちょい上のひとはみんな何らかのカタチで戦争体験者だった。
よしんば、親も。
って感じだったので、おのれの年齢を感じるなあ。
と。それだけの浅ーいハナシ。
*
昭和かよ! 的には
「戦後70年」って言われると
ああ、今年は昭和90年かあ
っておもう。
昭和のころって年をぜんぶ昭和で数えてた。
西暦を意識するのなんて「4の倍数は五輪ピック」
ぐらいのものだった。
平成に入ってからもしばらく、
昭和でいえば何年、とか換算してた。
だから何だってわけじゃない。
そうだったよなあってだけのハナシだ。
*
まわりのオトナなんか、だいたい戦争体験者で。
昭和16年生まれの父親なんかは
「モノゴコロついてないころに戦争が終わった若者」
団塊の母親なんかは文字どおりの
「戦争を知らない子どもたち」って扱い。
昭和ヒトケタのひともまだ働き盛りで
大正生まれだと初老、
明治生まれが跋扈してる。
そんな時代だった。
だから何だってわけじゃない。
そうだったよなあってだけのハナシだ。
*
子どものときに「戦後40年」って
今年みたいな一大節目があって。
そんときゃおれも10歳そこそこなもんだから
「歴史アリ! すげえな昔!」的な合点をしてたものの。
たとえば。
じぶんが生まれた昭和49年をこっちがわに41年進めりゃ、平成27年。
あっち側に41年折り返しゃ、昭和8年。
まだ、沢村栄治が草薙球場でベーブルースと対峙すらしてない。
と考えりゃ、ぜんぜん昔じゃない。
あるいは「おれじたいが、昔」。
だから何だってわけじゃない。
そうだよなあってだけのハナシだ。
でもなんだか奇妙なハナシだ。
*
そんな時代に生きていた僕たちは、
いまや貴重な財産となりつつある戦争体験の肉声も
ごく身近なものとして、周囲のオトナたちから訊けてた。
たとえば。
は、措く。
このままいったら、『僕たちの戦争』にたどりつかねえ。
*
しかも。
この本について深く語るわけでもなく。
「今年もこの時期だから、一発読み直しておきましょかね」
って、これから読むんかーい。
そんな、ルネサーンス! な感じっていうね。
今年の流行語大賞マチガイなしなキーワードまで、持ち出して。
*
『僕たちの戦争』が大すきなんである。
どんくらいすきかっていうと
「荻原浩のなかで10本の指に入るくらい」
そりゃもう、壮絶にすきなんである。
この時期になると、毎年よむ。
300冊の本を読むより、1冊の本を300回読む派。
*
フリーターの健太はアツのナツイ日、海でサーフィンしてる。
溺れて気づくと、そこは昭和19年。
かたや。
軍国青年の吾一は戦闘機の訓練をしているとき
エンジントラブルだかなんだかで海へ墜落。
気づくと、そこは現代。
吾一とうりふたつの健太は、昭和19年を吾一として生きる。
そして、ある女性と出会い、恋にオチる。
やがて。
その女性は、健太のおばあちゃんで。
吾一はじぶんのおじいちゃんであることに気づく。
そんな健太(=吾一)に特攻命令が下る。
「ここで吾一が死んじゃったら、おれ、生まれてこねえよ!」
パニクる健太。
さあ、どーする、どーなる???
っていうのが、すげえ雑なあらすじ。
1年でこんなに忘れちゃうんだな。
*
まあその。
ディテールな、というか
どうでもいい心の機微とかの描写は
荻原浩は天才的におもろいので、
もしおれのチョー雑なあらすじにピンときたら
実際に読んでみるがいい。
謎の上から目線。
キクチのくせに。
いや、読まなくていい。
*
ただ、ある意味で。
子どものころ周囲のオトナから訊いたハナシより。
テレビでこの時期よくやってるリアルな映像より。
ヘタすっと『二十四の瞳』より。
10年ぐらい前に『僕たちの戦争』を読んだときのほうが
おれにとっては戦争のいろんなことをリアルに感じられた。
「おのれのこと」として。
だから何だってわけじゃない。
そうだよなあってだけのハナシだ。