「うわあ、近くも遠くも全然みえねえ!」とか「肩があがらねえ!」的なことではありません。
ネットをたゆたってたら、こんな記事があった。
すげえ雑にあらすじすると。
29歳のときは中途半端な若さで、将来の夢的なものを諦めるかどうかの際で焦ってたりもしたけど。
39歳になったら、逆にそういう肩の力が抜けていろいろやり過ごしやすくなったみたいなこと。
かたや、こちとら49歳としては「29も39もどっちも全然若えよ! ピッチピチだよ!」おもうし。上記リンク先の4コマ目で言ってる「10年後の49歳」ジャストズバリ的なフックも感じたので、せっかくだからうすくイッチョカミしてみることにした。
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49歳のきょうび。最近つおく感じるのは。
「年齢を自覚するのがいいのか、しないほうがいいのか」
世間一般的な49歳というと、もろもろ完成してきてるお年頃である。
スキル/手に職的なことも煮詰まってきており(←正しい意味で)、それまでの経験と相まって俯瞰的なものの見方、スタンス、立ち居振る舞いが求められてもいる。
馬子にも衣装っていうか、キクチも最近、ケースバイケースで49歳を自覚した振る舞いをしなくちゃいけないシーンが増えたような気がする。当然、できないしよくわからない。
なので、ちゃんと49歳感を出せてるひとを見るとすげーっておもう。
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かたや。
マラソンつながりのひとに特に多いような気がするが。
新しいことにエネルギッシュにガンガンチャレンジしてるひともいる。
あまつさえ、いい齢してそれを丁稚からというか、素直にすべてを吸収してやるぜ的な気概でもって臨んでたりして。
「年甲斐もなく」が誉め言葉にしかならないひとたち。
うらやましいし憧れもするし、じぶんもそうありたいなとおもったりする。
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というわけで。
「年齢をちゃんと自覚して相応にする」
「行動基準に年齢という尺度を持たない」
これって、どっちがいいんすかね?
(とほざきつつ、絶対的などっちかの正解は求めてないんだけどな)
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漠然とした物言いを、さらにふんわりとした物言いでつらねると。
こうおもったきっかけの1つは。
キクチはボスのところに潜り込んで20年以上経つんだが。
ボスは2回り上、おんなじ寅年なんだが。
いまでも週1回ぐらいは仕事終わりにサシで飲みに行ってて。
(よしんば、お互いあるいはどっちかが忙しくて2週か3週ぶりに飲んだりすると「いやあ、ひさしぶりだね」なんつったりする)
(デスクが隣で仕事中によく会話もするのにな!)
関係性は親分と子分、キクチは永遠の若い方って感じで。
まあ、マンツーだし齢の差が縮まるわけじゃないから当然ちゃ当然なんだけど。
ある日ふと、「いまのおれって、キクチが凸してきたころのボスの齢と変わんなくね?」って気づいて、途方に暮れた。
客観的に20数年前のボスとおなじような見た目(老け度)になってきたんだろうから。
若手っぽくしてたら、それはそれで変なんじゃないか? 客観的に。
とおもったおもいましたとさってわけで。
。。。
言ってることわかりる?
(じぶんでじぶんの言ってることがだんだんわかんなくなってきたぇ)
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似たようなことって、じぶんに子どもができてからしてるはずで。
もって回った言い方をすると。
人の親になると「じぶんの親はキクチが物心ついたときから親だったけど、生まれてからずっと親だったわけじゃないんだ」って世紀の大発見をしたりするじゃないすか。
逆に「キクチがガキのころ、親はこういうふうにキクチをながめ、接してたのかあ」がよおくわかったりすんだけど。
。。。それとこれとも、ちょっと違う気がすんだよなあ。
「立場がひとをつくる」みたいなこと?
いやいやいやいや。
それって、完全に年齢を自覚せれ側じゃん?
「父が酔っぱらって一家だんらんのときに無邪気に下ネタをほざく」みたいなこと?
いやいやいやいや。
そんなん、エネルギッシュでもねえしチャレンジとしては無謀かつ完全なる失敗じゃん? そもそも年齢を自覚するしない以前の、品格とかそういう論点にすりかわっちゃう。
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収拾がつかないまま終わるが。
ひとつだけ言えるとしたら。
29のとき、39のときにおもってた49像と実際になってみた49とのギャップがすさまじすぎて目を覆いたくなるいっぽう、29→39→49がガッツリ地続きであることにちょっと安心もしている。