キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

そこにいる一人とひとり、みたいなこと

12月に入ってから、平日はまいにち超絶豪邸から超絶地元駅までぽくぽく走ることにした。

きょう4日目。オーバーザ三日坊主うぇい!

 

まあ、たった1.5kぽっちの道のりだけど。

おとなしくしてりゃ平日、1.5kも走ることはないわけだし。

無が有になっただけでもめっけもんというか。

 

「ただ走るだけ」

速く走ろうとか、そういうことをまったく考慮に入れず。

おさんぽ気分で、ちょっとスカすと朝の陽を浴び、きょうの風を感じる的な風情で気持ちよく歩を進めているだけなので。

ほどよく頭がからっぽになれるし、ほどよく考えごともできるしで実に快適だ。心地いい。ポコチンいい!

 

 

当初、1日目2日目は。

「これをなんとか習慣化してやるぜ!」だの「これが習慣化したあかつきには何らかにグレードアップしてうんぬん」だの、「がんばるぜ!」的な源氏物語絵巻をめくるめくしたりもしたが。

 

ここのこれは、本質的にそういうもんじゃないな。

ということに気づきはじめてもいる。

 

でいて。

「これって、続けられる糸口つかめたんじゃね!?」おもったりもする一方。

そういうことを自覚したしゅんかん、コウものしたしゅんかん。

てめえのなかでなんらかが完結して。

明日からやめちゃう、おれあるあるもありうりだけど。

 

そうなったらそうなったで別にどうでもいい。

と、おもっておる。

 

ただ、この変哲もない物事が。

おもったよかすげえ楽しく感じてるので、とりあえず明日も続けるつもりだ。

いまんとこは、な。

 

 

で、じぶんのなかで土日に観た「岸辺のアルバム」が、まだまだすげえジワってて。

ドラマ自体や、むかしの多摩川水害のことを。

通勤電車のぼんやりしてるときとかに、片っぱしからググったりしてる。

 

そのなかで。

すごく印象に残ってどうしようもない一節があった。

 

岸辺のアルバムのモチーフにもなった1974年の多摩川水害。

19軒が濁流に飲み込まれたんだが。

その後、18年もの長きにわたって裁判が展開され(!)、けっきょく国からの賠償が認められたんだとさ。

 

その結果。

詳しい数はわからんが。

「他の地域に転居した人もいれば、元の場所に家を建て直した人もいる」らしいのね。

 

決壊の碑のわきは、そんなんわけで連続4日間通ってるので。

(ふだん?いままで?は川沿いじゃなく、駅まで行くには近いから一本内陸の道を使っておった)

その一節がどうにも気になって、走りながら、右側(陸側)の家をなんとなくキョロキョロ見てしまう。

 

「このお家はそのときのものかなあ?」

「このお家はもっとぜんぜん新しいぜ?」とか。

いや、けして興味本位ではなく。

 

 

キョロキョロしながらつくづくおもったのは。

「多摩川水害」とか「19軒」ってかたまりではなく。

あの洪水ってのはそこでまさに1軒1軒、もっと言うと、そこにいる一人ひとりに起きていたことなわけで。

 

かたまりじゃなく、個々に想いを馳せることによって。

捉え方がずいぶんと変わってくるんだなあということ。

 

(それは1995年の阪神淡路からいくつかあった大地震や災害・事件事故のたびに、ひっかかってきたことではあったが)

 

 

ものすごく大雑把な、不謹慎な言い方をするならば。

 

死者・行方不明者がたとえば1万人だとしたら。

「あああ」ってなるわけで。

かたや死者・行方不明者が1000人だとしたら。

また「あああ」ってなるわけだけど。

 

どこかしら、数字のマジック?で。

1万人のほうがすげえ悲劇みたいにおもえちゃうけど。

そんなのはただの数字で。

 

一人ひとりがいくつ積み上がったかにすぎないわけで。

直面していない身からの無責任かもしれない「あああ」の軽重は変わるもんではない。

 

これもものすごく大雑把な、不謹慎な言い方をするならば。

「1人」だとしても、「1万人」との差異はそこにはないんだよな。

 

みたいなことを考え込んだ。

キクチ、わけのわからないことを言ってます??

 

 

ちょっと話は飛んじゃうかもだけど。

 

今やってる朝ドラで。

日中戦争に出征した弟が戦死して

ヒロインが悲嘆にくれてるかたわら。

 

数日後、真珠湾攻撃があり日米が開戦したってニュース。

世間は「いよいよ来たな!」「鬼畜米英だ!」って戦意高揚に沸き立ってるという、重い重いシーンが展開されてる。

 

悲嘆に暮れてるはずのヒロインがやけくそで。

巷間の流れとともに「バンザーイバンザーイ!」ってしてるシーンが、とてつもなく切ない。やるせない。

 

「弟の戦死」というきわめて個のもんだいと。

「神風ニッポン?というかたまりがこれから勝ち負けする(でいて、当時の人たちは日本の勝利を信じて疑わなかったんだろうね、たぶん)」というもんだいとのコントラスト。

 

あすこで開戦に沸き立ってる人たちは。

数年後に訪れまくる「父や兄がガンガン戦死し、じぶんも戦死するかもしれなくて、母や姉妹さえ本土空襲でどしどしいなくなる」「よしんば死ななくても、とてつもない飢えや恐怖にさらされる」

なんていう個の絶望には、まだまだとても想像力が及ばないんだろうし。

 

 

卑近な話をほざくと。

いとこのおじいちゃんが、日中戦争で戦死したらしくて。

 

(その親戚の家に泊まりに行くと)

(必ず、仏壇がある客間で寝ることになってて)

(そこには軍服姿のそのおじいさん?の勇ましい遺影が飾られてあって)

(キクチは、その親戚の家に遊びに行くのがいつもとても楽しみだった反面)

(その、遺影がなんかおっかなくって、いやでいやでしようがなかったのね)

(ってことはクソどうっでもいいとしても)

 

でいて、そのおじいさんは「村で最初の戦死者」だってんで。

軍神的な扱いを受けたらしいのよ。

 

かたや、一家の大黒柱を失い。

新婚間もない義理のおばあさんと、当時生まれたばかりの伯父はそれからとんでもない苦労をしたんだそうで。

 

これも、かたまりと個でさあな。

 

 

。。。

 

 

とりとめがつかなくなったので。

決壊の碑にあった碑文を原文ママで書き起こしとく。

 

それに何の意味があるのかはわからんが。

客観的な史実を伝える「報道」として過不足のない、なかなかの名文かも。

(極私的には、「ため」「うえ」「わたる」をひらがな表記してるあたりのお役所仕事っぽくなさがちょっといいなっておもった)

 

ちなみに。

キクチが超絶豪邸を購入して超絶ビッグシティ狛江に移り住んだのは、この碑が建てられた翌年、平成12年である。

ノストラダムスでいう大魔王の翌年だな!

 

これぞ・ザ・クッソどうでもいい情報!

 

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碑文

 昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて、台風16号の影響をうけ、上流氷川を中心にした多量の降雨のため、多摩川の水位が上昇を続けました。この出水により、1日昼頃、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取付部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が侵食され、懸命な水防活動もむなしく、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江市猪方地区の家屋19棟を流出させる被害をもたらしました。

 この「多摩川水害」は、首都圏の住宅地で発生し、3日間という長時間にわたった特異な災害であり、報道機関によってリアルタイムに全国に報じられ、多くの国民の注目を集めました。

 建設省は、災害直後から速やかに本堰周辺の復旧工事を進め、翌年には完了させるとともに、「多摩川災害調査技術委員会」を設置し、いち早くその原因の究明にあたりました。

 一方、被災住民は国家賠償法に基づき提訴し、河川管理の瑕疵について改めて指摘された水害にともなり、平成4年(1992)に判決が確定しました。

 平成10年(1998)、従来の堰より40m下流に、洪水を安全に流すとともに、豊かな水辺環境の保全と創造を目的とした新しい堰が完成しました。

 ここに、水害の恐ろしさを後世に伝えるとともに、治水の重要性を銘記するものです。

 

平成11年3月27日

建設省京浜工事事務所

狛江市

 

800字でまとめるつもりだったのに3300字オーバーぇ。。。

 

じぶんは目の前の一人ひとりをいちいちちゃんとリスペクトできる人になりたいです。

あらためてつくづくおもいました。

酒のみてえ!