そんで、大雄山駅でお会いしてから。
徒歩5分ぐらいで会場に着いて、行列に並んで、席に着いて、ミュージカルが始まるまで。
いっちさんとわりとずっとお話しさしていただいてたような気がする。
うっひょー!
*
事前には、気軽にカミさんやカミさんの奥さんにご挨拶できるかなあともおもって臨んだんだけど。
よく考えてみたら、保護者として演者(お子さん)のサポートとかいろいろ立ち回らきゃなんないから、ご挨拶なんてとんでもねえくらいものすげえ忙しいに決まってんだよね。
残念ながらけっきょくお会いでけなかった。
*
受付でパンフレットをもらい。
着席して目を通してみるが。
文字が小さすぎて、読めない!
(何らかの渡辺謙なてい、ナツい)
そうなんである。
そのパンフの文字がことさら小さかったわけではないが。
キクチはここ1、2年ぐらい。
老眼的な何らかがいきなり急激に発達してきて。
ずんずん、近くも遠くも明日のじぶんも見えなくなってきておる。
ずんずまん!
*
それについちゃ、このクソ辺境でも何度か取り沙汰したが。
キクチは生まれてこの方、わりと「目、すげえいい」ライフを送ってきただけに。
「いままで当たり前に見えてたはずのものが全然見えなくなっとる」というサッコンのおのれの変化に、ものすげえ戸惑っておってまだ順応しきれてない。
なので、パンフレットには。
物語のあらすじ?さわり?がていねいに書いてあるのに。
視界的にはぼんやりしててまったく読めないし。
あまつさえ。
カミさんのお子さんのお顔だけは目に焼きつけといて。
いざ、舞台に登場したときに「あ、この子!」認識でけるようにしとこうとしたのに。
パンフの写真だと若い子の顔がぜんぶいっしょに見えちゃう!
。。。
あら、これは老眼問題とは別の、老化問題ぼっぱつですわよ!
「イマドキのジャニーズの『なにわ男子』みんないっしょに見える!」的な。
(「金太郎!」)
(あ、足柄だけに勢い100のみのご当地GAG!)
(あまつさえ、脳内再生では津川雅彦の声音で!)
(サラリーマン???)
(「寒太郎(かんたろー)!」)
(往年のサブちゃんのシャウトもからめてみる)
(北風小僧。。。昭和な)
(「かんくろー!」)
(勢いのみで身近に寄せてみた)
(「くどうかんくろー」って言えば、自称ドラマおじさん的に今季いちばんドハマリしてるのは「あまちゃん」の再放送である)
(今回初めて観てるキクチはもうじき、10年遅れで「じぇじぇじぇ」って濫用しだす臭いがぷんぷん)
(あああ、こういう脱線の仕方うぜえな。よす)
*
話を戻すと。
これも人生のパイセンとしていっちさんに尋ねたらば。
「いろいろ見えなくなるぶん、じぶんに本当に必要な、都合のいいことが率先して目に入ってくるようになるのはあながち悪いことばかりではない」
みたいなことをおっさってて。
首がもげるんじゃないかぐらい、首肯した。
*
むかし、30年ぐらい前に赤瀬川原平だっけ?
老化を「老人力」って言い換えてるのが流行語大賞?ベストセラー?になった当時。
そのむりくりポジティブに解釈するへんてこな前向き感がちょっとなあとおもったんだけど。
それとこれとは、きわめて似てる現象なんだけど。
ニュアンスはビミョーに違ってて。
に近いんだろうか。
つまり。
たとえば視力なり聴力が衰えて。
きょうび、技術の進化にともなって
それを道具によって補完できるようになったいっぽう。
補完されて見えなかったものが見えるようになったり聞こえなかった音が聞こえるようになったりするのは。
同時に、本来ひょっとしたら見る必要がなかったものが見えてしまっていたり、聞く必要のなかったノイズも入ってくるっていうことでもあって。
その補完道具を自分にとってちょうどよくチューンアップする。
(じぶんにとってチューンアップされた世界にする)
ってのは、あんがいむつかしいことなんだなと。
*
ああ、すんげえ抽象的な話になっちゃうんだが。
極端に「見えすぎる世界」と「見えなすぎる世界」があるとするならば。
よしんば後者のほうが全然ハッピーなのかもしれない。
とかね。
おれはその世界に近づいてるんじゃないかとかね。
いや。
「見えなすぎる世界」ってのも実際はいろいろ支障が多いし。
それこそ立場や状況によって変わるから一概には言えないんだケド。
*
なんてことを考えてるうちに。
いよいよミュージカルが始まった。
つづく。