最近のドラマ(物語)で。
「伏線の回収」がちょっと出過ぎててやだっていう話なんだけど。
「伏線の回収」については、前もどっかでほざいたな。
たとえば(↓)。
*
「伏線の回収」がドラマとか物語で金科玉条?みたいに、なんかサッコンますますなってきてんのが。
ちょっとヤバいんじゃないかなあっておもう。
おもいましたとさってだけの話なんだが。
(話が一歩も進んでねえぇ?)
*
また、朝ドラ「舞いあがれ」なんだけど。
きょうの「舞いあがれ」で、ヒロインの舞が相談した市役所の職員が。
舞が学生時代に所属してた「なにわバードマン」っていう。
鳥人間コンテストをめざす人力飛行機のサークルの、伝説の安川先輩なのね。
その伝説の先輩を演じてるのは駿河太郎。
笑福亭鶴瓶の息子なんだが。
それはどうっでもいいとして。
*
きょう、ここで安川先輩が登場したことに対して。
伏線回収警察?が狂喜乱舞してんのよ。
あの、空先輩が熱弁してた「ターミガン号」を設計した安川パイセンキター!
伏線の回収や!!!
。。。
って、それちげくね?
*
前にもどっかでほざいたとおり。
最近のドラマの視聴者側って、「この伏線をどこで回収するのか?」「どこに(回収される)伏線が張られてるのか?」を探るゲームみたいになってんのが。
うっとうしくって、しようがない。のね。
サービスの提供側として、つくりては「伏線(の回収)」を楽しんでもらえる要素のひとつと意図してつくってんのかもしれないけど。
それはすべてじゃなくって。
要するに、「サービスの受容者にいかに楽しんでもらえるか」の1ツールでしかないわけで。
いちいち「これが先々の何らかの伏線か?」っていう見方しかできなくなっちゃうのは鑑賞の幅を狭めてることにしかなんないし。
つくりては、伏線を散りばめ、回収するために物語をつくってるわけじゃなく、その物語をいかにすばらしいものにしようかってことを考えてつくってるはずなのね。
つまり、サービスの受容者が「伏線の回収」1点にフォーカスしすぎると、もっと大事な何かを見逃す・キャッチできないということが発生する(かもしれない)
*
って、おもうわけ。
*
ドラマとか小説とか物語は。
言っちゃえば創作だから。
なんかコウ、1本筋がストーリーに通ってるものかもしんないケド。
「物語」を、「日常を紡ぐもの」として捉えたらならば。
筋はそうそう、1本では通ってないわけで。
主人公にだっていろいろな揺れ動きや、矛盾した想いがあるはずで。
それが何らかのまとめに入った時期になって、「あれは実はここにコウ作用してたんだ!」的につながるようなもんで。
乱暴に言っちゃうと、結果論でしかないんすよね。
「役者として売れない時代にやってた工事現場のバイトが、今回のこの役を演じることによって貴重な経験だってことを実感できました!」的な。
「たいして仲のよくなかった同級生と30年ぶりにばったり会って二言三言話したことが、いまからおもえばめぐりめぐって大きなヒントになってたのかもしれません!」的な。
それをですね。
「あすこの工事現場のバイトは必然だったんっすよ!」だの。
「あの、たいして仲のよくなかった同級生とばったり会ったのは必然っすよ必然。神の配剤っすよ。運命的な出会い♡」
だのって、キクチはいかにもつくりものくさくって。
「その伏線がいま、回収されましたね!」
言われれば言われるほど、うっそでー!ってなっちゃうんだけど。
いや、要素としてはあるのかもだけど。
それありきみたくしちゃうと、たとえば「運命」みたいなことだとしても陳腐化しちゃうじゃん?的な。
*
なので、というかだからというか。
「これってひょっとして、あのときのあれが伏線だったのかも?」
ぐらいに明示されないふんわりぐあいで。
それが伏線だったかどうかは、当人が後から思い返してそう解釈すりゃいいだけのことだ。
(傍観者=ドラマの視聴者の即時的な伏線回収カタルシスなんてどうでもいい)
(ドラマの視聴者という立場なら、とにかく楽しけりゃいい。カタルシスの形なんていっくらでもあるでしょうよ)
っておもうんだけど。
それってどうなんだろうな、ぽえむ。