キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

変わることを恐れない、みたいなこと

ベテランで好奇心や柔軟性のあるひとって褒められがちじゃないすか。

「おばあちゃんがスマホを使い始めた」みたいな。

 

 

あ、まったくどうでもいい思いつきです。

なので思いついた順にほざくので、とりとめがないかもしれません。

 

 

おばあちゃんがスマホを使い始めたりすると。

(彼女に比べれば若者な)ぼくたちあたしたちは「やるじゃん!」っておもう。

 

いまの時代にちゃんとついてってるっていうか。

新しいものにちゃんと飛びついてく好奇心とか柔軟性、すげえなって。

「気持ちが若えな!」って。

 

でもそうじゃないんだよね。

 

 

48になりなんとするキクチとて。

すでに若いアイドルの顔なんか見分けがつかねえし。

ムスメっこ(JK)がいいとおもう物事がさっぱりわからなかったりする。

じゃないすか。

 

それを「時代が違う」という言葉でくくって。

理解することを放棄してしまっている。

ということが、往々にしてある。

 

言い方がすごくむつかしいんだけど。

ある意味においてはそれは「キクチ終わってる」なわけで。

 

何を言いたいかというと。

おばあちゃんにとってスマホを使い始めるってのは。

「変わることを恐れない」みたいな美談ではなく。

「変わらないと生き残っていけない」という、

いわば必然的なことで。

 

 

ここでキクチは。

「おばあちゃんがスマホを使う」というたとえが

ちょっと間違えてたことに気づいたぇ。。。

 

それは、絶対的に正しい、いいこととはかぎらなくて。

「ワシはガラケーのままでいいんじゃ!」

よしんば「携帯電話は持たねえ」という人もいていい。

 

伝書鳩を使い続けるんじゃ!でも、いい。

それもひとつの価値。

 

が、話がややこしくなるのでここでは措く。

 

 

そう、「価値」「価値観」だな。

 

たとえば、じぶんが子どものころ。

 

駅のホームでみんなタバコを喫ってたし。

特急電車の座席とか公共の場にはだいたいふつうに灰皿が置いてあり。

野球場の観客席でも街の雑踏でもふつうに喫えた。

 

 

あ、昔が間違ってるとか今が正しいとかを言いたいんじゃなくて。

現象としてそうなってますって話な。

 

 

あるいはたとえば。

 

母親で正社員としてバリバリはたらいてるひとはまれで。

専業主婦がほとんどで、せいぜいパートしてるぐらいで。

「亭主元気で留守がいい」なんつうコピーが流行ったぐらい、

男が金を稼いで女が家を守る、がふつうだったり。

 

10コ上のいとこは浜松で優秀な女子校に行ったんだが。

女子ということで、ふつうに進学しなかったりとか。

 

じぶんたちの時代でもまだほんのり。

四年制大学をことさら「四大」なんて言ったりして。

短大だと2年だからいいけど、四大だと4年もあるからそのぶん嫁に行くのが遅れてしまうだとか。

家政科がいっぱいあったり。

 

要するに、女性は全体的にいい嫁になるための教育を受けてたわけで。

 

 

それがリアルタイムで生きてた肌実感としては。

価値・価値観が少しずつ少しずつ変わってきて、いまや。

タバコを喫うひとも、いい嫁になるためになるための教育をずっと受けて育つ女性も、絶滅危惧種というかごく少数派になってて。

 

その価値観の移り変わりにリアルタイムでちょっとずつ順応してきたからこそ、いまの価値観を違和感なく受け入れられてるわけで。

 

もし、その40年前?45年前?の人たちがいまにタイムスリップしてきたら、すぐには順応できないっていうか少なくとも明らかに戸惑うわけじゃないすか。

 

それを当時の常識に則って行動してたら、いまは完全に非常識なわけで。

いい悪いではなく、その時々の常識についてゆかなくては生きてゆけない。

 

 

やっべえ。

わかりづれえ?

 

最初に出した、おばあちゃんのスマホだの若いアイドルの顔の見分けだのってのがまずクソへたっぴいだったくせえぇ。。。

 

 

仕事の現場なんかまさにそうで。

少なくとも「いま」、あわよくば半歩先の知識なり技術なり文化を理解?吸収?しつづけていないと、文字通り銭がもらえない/生き残ってゆけないわけで。

(きょうは「わけで」が無駄に多いよな)

 

「わしは外野席でタバコを喫いながら野球を観るんじゃ」みたいなこと言ってたら、仕事の声すらかけてもらえない。

せめて分煙、喫煙所いけよって話になる。

 

。。。

 

みたいなことをちらっと考えた。

 

 

現状維持しつづけるってのは、変わらないことじゃなくて時代に応じて少しずつ変わってゆかなきゃなんないってことで。

 

プロ野球で、超一流選手はともかくとしても。

毎年レギュラーで2割8分を打ち続けるには、どんどん進化しないと現状維持はできないはずなのね。

 

去年2割8分打ったとしても。

じぶんの特徴、打球方向の傾向や得意不得意な球種・コースは研究されてくるし。

相手のピッチャーだって、新しい変化球を覚えてくるかもしれない。

それに対応しないと今年はとうてい2割8分打てないわけで。

今年打てても来年、またその翌年とイタチゴッコ?で。

(ああもう、次は野球かよ。たとえが多いなあ)

 

 

「おれはスマホも若いアイドルの見分けもわかんなくていい! 伝書鳩でやってくよ。明菜ちゃんかわいいなあ」

は、哲学としてはカッコいいのかもしんないケド。

 

その悟りの境地?に達するには。

48歳になりなんとするキクチは、まだちょっと早いかなあ。

若いアイドルの、ケツのひとつも追っかけつづけてみようぜ!

っておもう。

 

(ただし、こんなセンスもへったくれもないたとえなんて)

(「それはセクハラです!」って真っ向から社会的制裁を受けるかもしんないな)

(荒波はきついぞ。がんばれキクチ! キクチがんばる!)