3/24にTBSラジオの『伊集院光とらじおと』が最終回を迎えた。
番組が終了するに至った経緯やら、キクチの伊集院光に対する思い入れは今年のはじめにほざいた(↓)とおり。
6年間、大げさでも何でもなく平日午前中の耳のお供だったので、「来週から何をすればいいんだぜ?」って気もするし、逆にラジオを聴いてたばかりにできなかったこともあるので、午前中のラジオ自体聴くのをやめる「習慣はがし」としてはいいタイミングなのかもっておもったりもする。
どうっでもいいな!
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しかし、この「伊集院とサヨナラ」な気分って何なんだろうね。
『伊集院光とらじおと』といういわば「箱(?ラベル?)」が終わるだけで、別に伊集院光がラジオをやめるわけでも芸能活動から引退するわけでも、まして死ぬわけでもないのに。
って考えてて。
これは卒業とか異動とか退職もおんなじすたっらくちゃーだなっておもった。
何つうか。
「稲中のキクチ」が進学して「ノリ弁実業のキクチ」になったら、もう「稲中のキクチ」はいない/二度と戻ってこない感っつうか。
。。。わかりづれえ?
伊集院はテレビや深夜ラジオもやってるから、これからもぼくたちあたしたちは伊集院を享受することはできるんだけど、それは「とらじおとの伊集院」とは違うわけで。
『とらじおと』という箱における伊集院は金輪際あじわうことはできない、と。
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けっきょくこのエントリーって「『とらじおと』が終わっちゃってさみしいデース」を言いたいだけなんだけど。
箱というものは案外大事っていうか。
何らか人や物事をみるとき、箱が占めるウエイトって高えんだなと。
おもったおもいましたとさってだけのことで。
たとえば。
「ブログをやめちゃった○○さん」は何だか、いままでぼくたちあたしたちといっしょにいた世界からものすごく遠くに行ってしまったような気になるし。
「走ることをやめちゃった○○さん」は何だか、いままでぼくたちあたしたちといっしょにいた世界からものすごく遠くに行ってしまったような気になるじゃないすか。
もう彼にはけして近づいてはいけない結界が張られちゃった、みたいな?(←これこそわかりづれえな。。。)
そこにおける「ブログ」とか「走ること」ってのは、たんなる「おれっちと共通の趣味・共通の話題」よりもっと広いというか、大切な意味を持ってるのかもしれないっすね。
ぽえむ?