ジョギングしてると不意に脳内で曲が流れ出す
ってこと、あるじゃないすか。
ナドト、さもいつもジョギングしてるような
ていでほざくんでありますが。
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たとえば、レースで気分がアガってきたとき。
キクチは高校野球がすきなので、高校野球の応援歌が脳内で流れたりして。
それが流れ出すと「うおおキター!」ってどんどん調子に乗れちゃったりして。
シドニー五輪のときの高橋尚子だと「LOVE2000」だったり、名古屋ウィメンズマラソンのゴール地点だと「ダンシングクイーン」だったりってのも、広い意味ではおんなじようなニュアンスで。
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なにげなくジョギングをしてると、とりたててすきなアーティストでもない、とりたててすきでもない曲の、サビではない一節が流れてくるのって何なんだろう?
そのジョギング中はその曲のテンポに右左右左って感じで支配?されちゃったりなんかして。
でいて、とりたててすきでもないので、ジョギング中はあれだけ支配?されてたのに、走り終わると何の曲だったかも思い出せないようなのって。。。
あ、さもあるあるみたいな物言いしてるが、ないんならいいっす。
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さっき、ジョギングをしてたら「来年も来るよ!」っていう曲が不意に脳内で再生された。
帰ってきてちょいとググったら、むかし「ポンキッキ」で流れてた曲らしいのな。
(なので、同年代で聞き覚えがあるひともいるかもしれない)
ただの童謡とおもってたら、作詞作曲南こうせつでやんの。
南こうせつのアルバムにも収録されててyoutubeで聴けたりすんだけど、リンクとかは措く。
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キクチはこのおうたがわりと前のめりに大すきで。
それは情操教育だかなんだか知らんが、子どものころ、母親が買ってきたカセットテープをクルマのなかでくりかえし再生されてたからで。
「聴く」というよりは「聞き流す」って感じだったんだけど。
オトナになってからそれを不意に思い出して、あらためて聴いたらなんかむちゃくちゃいい曲で。
子どものころのその、父も母も若くて元気だったころの家族のフインキやらを思い出して懐かしがっちゃったりもして。
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ほざく順番がわかんなくなっちゃったので、おもいついた順にほざくと。
もうね、詩がことごとくいいの。
1番の出だしなんて、すでに秀逸。
この町は緑に覆われた
小さな小さな田舎町
とんぼが垣根に遊ぶころ
ぼくは釣りに行きました
ごく説明的でいて、情景というか場面設定の画が頭のなかでバーッと広がる。
(上の動画をみるか、「来年も来るよ」で歌詞検索するといくらでも拾えるので、興味ござりますればどーぞ)
全体としてはほのぼのほんわかした物語で、どちらかといえばツッコミどころ満載。
(おじさん、ぜんぜん釣り名人じゃねえじゃねーかよ!とか)
(おじさんは「ぼく」ほったらかしかよ! 「ぼく」はどうやって帰ったんだぜ?とか)
(おじさん働けよ!とか)
なのに、えも言われぬ郷愁みたいなものが残るのね。キョライする。
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ああいうノスタルジーの共有感?みたいなのって何なんだろね?
キクチなんか生まれてから一度も魚釣りしたことないのにだぜ?的な。
このエントリー、やけに抽象的だな。
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かまわずに極私的なこのおうたの思い出をほざくと。
上記したようにクルマに常備してあるカセットテープに入ってたので、盆暮れに母親の田舎に行くとき高速道路で必ず流れてて。
行きはこれからおばあちゃん家に行くっていうwktkと、上で引用した出だしの部分がシンクロしてwktkが増幅され。
帰りは、またもうしばらくおばあちゃんに会えないなあっていう淋しさと、最後のほうの歌詞の「やがて夕陽が沈むころ」あたりがシンクロして旅の終わり感みたいなものが増幅されるとかそういう。
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いらねえ情報的には。
母親の田舎まではクルマで3〜4時間かかるから。
最初は子ども優先でそういうカセットが流れてるんだが、しばらくすると運転してる父以外みんな寝ちゃって。
家族が寝ると父はすかさず美空ひばりとか越路吹雪のカセットに換えてて。
家族が目を覚ましたころ、父は熱唱の真っただ中とか。
ひっくるめてそういう風景。
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ジョギングしながらそういう風景を思い出して、なーんかしみじみしちゃった。
ってだけの話。
子どものころあれだけ頻繁に行ってた浜松も、もう15年くらい行ってないなあ。
また行きたいなあ、今度の休みこそはとおもいつつも、もう15年も行ってねえのかあ。
ってだけの話。
五感のうち視覚から得られる情報が9割っていうけど、記憶を呼び覚ますって意味では聴覚と嗅覚に占める割合が異常に高いよね。
だからなんだよぽえむ。