キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

慮る、みたいなこと

酔っぱらった勢いで、サッコンのモヤモヤ(解消策?)についてほざいてみる。

 

きょう酔っ払った原因は、「おいしいセリ鍋を食いにいきましょー!」であった。

相当とりわけたあとにおもいついて撮った写真なので、映えないがこういう(↓)。

セリの、特に根っこの部分がむちゃくちゃ美味かった。ござる。

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で、きょうセリ鍋をトゥギャザーしたのはキクチを入れて3人。

 

1人は、キクチがここ20年来、勝手にメンター(死語?)として何かにつけて頼りにしまくってるおねいさん。

1人は、3年ぐらい前にキクチがじゃっかんの窮地に陥ったとき、そのおねいさんに泣きついたとき紹介していただいて。それからおしごと的にいろいろ助けていただいたり迷惑をかけまくってる、これまたおねいさん。

 

後者のおねいさんにとっても、前者のおねいさんはメンター(死語?)的な立ち位置で。

わかりやすく言うと、師範代1人&弟子2人、みたいなセリ鍋しゅらば。

 

 

前者おねいさんと後者おねいさんは、わりと密に連絡をとっておって。

後者おねいさんとキクチは、わりと密に連絡をとっておって。

前者おねいさんとキクチは、わりと密に連絡をとっておる。

そして3者も密にではないが、たまには一堂に会する。

的な関係性。

 

 

(キクチはこんなんだからともかくとしても。)

前者おねいさんも後者おねいさんも、ものすごく神経のこまやかなっつうか、関係性における調和みたいなことに人一倍気をくばるタイプ。

偽悪的にいえば、よしんば相手の立場や気持ちや心情を先回りして対処してしまうというクソめんどくさい性質のもちぬしだらけなため。

必要な配慮がトゥーマッチな反面、不必要に配慮したのが結果的に思い過ごしだったりするがゆえ、いらねえ心配を三者三様に他の二者にする。

 

みたいなきょくめんも、ままあったりする。

 

 

で、お互いにそういう性質だってもうわかってるから。

逆に? 円滑に進んだきょうのセリ鍋はとってもとっても楽しいものであった。

 

キクチは彼女らほど、繊細な心配りをする性質ではとてもないのだが。

ある意味において、やけに神経質なぶぶんがあったりたっぷり自覚するほどめんどくさいぶぶんがあったりするにんげんなので。

 

そんなこんなが、奇跡のマリアージュ? ゼツミョーなバランスで噛み合う感じで。

少なくともキクチにとっては、とても居心地のよい空間であった。

 

(そこらへんのリズム合う合わないって、ものすっげえ重要じゃん?)

(たとえば「こいつのことは大すきなんだけど、そこらへんのリズムがちょっとズレる」ってなると、そのギャップがはかりしれないストレスを産出しちゃう、みたいな)

 

 

そういうバックグラウンドななか。

なにを言いたいかというと。

とちゅうで「これがいいぐあいの『慮る』だな」っておもったわけで。

 

 

。。。

 

 

なんかですね。

おとといぐらいまで1週間弱、ブログを更新しなかったのって。

しなかったんじゃなく、できなくなっちゃってて。

キクチの超低速脳内コンピューターが熱暴走(死語?)して、わけがわかんなくなっちゃってたんっすよ。

 

「なにをほざいても、もうぜんぶ間違いな気がする」

ってえとちょっと大げさだけど、だいたいそんなん感じ。

じぶんが拠って立つ価値基準が、さっぱりわかんなくなっちったの。

 

それは、正月の能登の地震とその後のあれこれとか。

「○○ハラ」にまつわるあれこれとか。

てめえのやることなすことがすべて「老害」なのか? とかうんぬん。

 

『セクシー田中さん』のことなんか、あれからずーっと毎日何やかや考えてる。

 

 

「マルハラ」って、いい感じな恰幅みたいなことかとおもったらそうじゃなくって。

「マルコリーニが腹いっぱい喰らった」ってことでもどうやらないらしくって。

 

どうやら「マル」の解釈における世代間ギャップのことらしいんだけど。

それを「ハラ」とするのは、多様性なのか思考の柔軟性なのかただの阿り(おもねり)なのかすらよくわかんなくなってきて。

そもそも、そう考えることじたい、おのれがヤングチームではなくアダルトチーム側の、老害側の立脚点に立っちゃったのかとか。

(ヤングチーム・アダルトチームがド昭和じゃねーかとかは措いて)

 

ああ、たしかにもうたんじゅんに年齢でいえば50になりなんだしなあとか。

とうとうおれさまちゃんもそういう、お荷物として淘汰される側の時代(年代)になっちゃったのかなあとか。

 

でもおれ、別に何も悪いことしてねえよね?とか。

 

酔っぱらってるだけに、いつにも増していらねえこと言ってます?

まあいいとして。

 

 

そのセリ鍋に寄せ集まった3人。

それぞれいろいろ立場や考え方は異なるものの。

場は「慮る」みたいなことに満ち満ちておって。

 

けして互いに傷を舐め合う的なことではなく。

ひたすら自分以外の他者を慮りつつ、進んでゆく。

(わかりやすく言うと、肯定しかしない)

(少なくとも、個々に違和感があるにせよけして否定はしない)

 

ってのが、こんなに心地いいの源泉にあるのかあ。

ナドト、冷静に考えたらクソ当たり前すぎることにハッとしたんであった。

 

もっとみんな、りょろうぜ!

りょりょれば、老害なんかいなくなるのにだぜ!

おもった。

 

「慮る」は「りょる」じゃなく。

「おもんぱかる」っていう、そのコウ、漢字1文字におもんぱかの5文字をねじ込むっていう頭でっかちな?字余りが過ぎる感もいい!

(最近息をひそめがちな高槻の高偏差値女はこういうの、ぜってーすきだよね!)

(かたや、横浜の高偏差値男は生きてるのかーい?)

 

なんにせよ、ハイライトは「ぱかる」だな。

「ぱかる」のまぬけ感が織りなすちゃめっけ!

 

 

ってんで、いきおいで意味を検索してみた。

なかなかのうんちく。

「おもんぱかる(慮る)」は、「相手の事情や周囲の状況について十分に思いを巡らせる・気遣う」あるは「相手の気持ちを察する(忖度する)」という意味の表現である。

 

漢字の「慮」は「よくよく考える・思い巡らせる」という意味である。思慮、深慮、考慮、顧慮、熟慮、配慮、憂慮、焦慮、などの熟語で用いられることが多い。音読みは「リョ」、訓読みが「おもんぱか-る」である。

 

「おもんぱかる」という読み方は、「おもいはかる(思い量る)」の音変化(撥音便)である。いろいろと考えを巡らすこと、特に周りの状況について考えを巡らすことを意味する。

 

「慮る」は、「忖度(そんたく)」と言い換えられる場合も多い。忖度は「相手の表に出ていない心裡を察する」という意味合いが主であり、「慮る」は内心を察するという意味とは限らず、むしろ「周囲の状況をよく見て充分に判断する」という意味合いで用いられる場合が多い。

 

0か100かみたいなコンピューター的なことじゃなく。

100のうち1とか10でもいいから「りょる」れれば。

あとの余りぶん、やさしくなれるのかもなっ。

 

「忖度」って言葉に色がつきすぎちゃったけど。

もともとはいい意味なんじゃん! とか。

 

りょる! すんど!