キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

どの視点から見てるのか、みたいなこと(小説『罪の声』の感想文)

こういう言い方はどうかとおもうが。

「グリコ森永事件」って
特にリアルタイムで知ってると
おなまえを聞くだけで、いわくいいがたい
高揚感を覚えたりするじゃないすか。

当時、小学生なヒロシ少年は
なんかちょっとワクワクしたわけですよ。

「ちょうせん状」がある種、痛快だったり。

犯人が「かい人21面相」っての名乗ってる
キャッチーさに!!!ってなったり。

「キツネ目の男」のモンタージュが
こわすぎて電気つけたまま寝たり。

マスコミがつけた「劇場型犯罪」って言葉に
よくわかんない新時代の到来を感じたり。

で、3日前か4日前、
ネットで『罪の声』って小説をみつけて。
ちょっと気になっちゃって。
ソッコーでダウンロードして読んでみた。

だって「グリコ森永」って聞いただけで
なんかちょっとざわっとするのに、
あまつさえ、こういうことなんだもん(↓)。

「これは、自分の声だ」
京都でテーラーを営む曽根俊也は、ある日父の遺品の中からカセットテープと黒革のノートを見つける。ノートには英文に混じって製菓メーカーの「ギンガ」と「萬堂」の文字。テープを再生すると、自分の幼いころの声が聞こえてくる。それは、31年前に発生して未解決のままの「ギン萬事件」で恐喝に使われた録音テープの音声とまったく同じものだった――。(講談社のウェブサイトより)

「『グリコ森永事件』って一体なんだったんだ?」
っていう疑問は、尽きない。

○犯人は誰なのか?
○世間を騒がしたかっただけなのか?
○金が欲しかったのか?
○おまわりなり企業に復讐をしたかったのか?
○はたまた、もっと深い闇があんのか??
などなど。

未解決事件だけに。

ほんとうのところはわからないし
だからこそ、もう35年も経ってるから
真相はたぶん永遠に謎なんだろうけど。

「新事実」が出てきたとしたら
たとえ、それが仮説にすぎないとしても
ちょっと、聞いてみたい。

ってのが、抑えきれない。

。。。

この小説は。
上記、出版社の紹介文にもあるように
「加害者でもあり被害者でもある人物」
を「中心に」物語られてゆく。

あ、実際にグリコ森永事件で。
身代金だか脅迫金?の指定電話に
3人の?子どもの声が使われてんのね。

「俊也」と、あと2人。

で。
興味をそそられたのは。

こういう事件モノのフィクションなり
ノンフィクションにありがちな
「真犯人はこいつだ!」
的な推理中心の展開じゃなくって。

「その脅迫テープに使われた
子どもたちはどうだったのよ?」
的な視点を中心に語られてる点。

じぶんがその子どもで、
一世を風靡した(日本語?)事件に
じぶんが知らず知らず片棒を担いでた
ってことを知ったとしたら。

その後の人生にものすっごく影響するだろうし。

じぶんが犯人で。
わが子に事件の片棒を担がせるとか
親として、どんな心情なんだろう。
おもうわけで。

どっちも影しか落とさないじゃないすか。

特に後者って。
人の親になると「そんなん、できる?」
とか、リアルに想像しちゃうし。

「家にあったテープが事件の脅迫のやつで」
「それがじぶんの声じゃねーか!」
って、いきなり渦の中に放り込まれた俊也が。

「ひょっとして
何の変哲もねえうちの親父が犯人なの?」
って真相を知りたくなって。
事件を探る。

のと並行して。

特別企画としてこの事件を取材してた
新聞記者の阿久津とのパラレルワールド?
があったりして。

おもわず、一気読みしてしまった。
まさに、悲喜こもごも。

あ、ひとつ本筋とはあんま関係ねえ
いらねえネタバレしとくと。

犯行グループの犯人それぞれの
人となりとかも語られたりすんだけど。
「キツネ目の男」はけっきょく
誰だったのか、わからない。

って余地の残し方はちょっといいなとおもた。

。。。

で、ですね。
ここからが本題。
読んでおもったことをほざいとく。

ここまででじゅうぶん長えのに、やっとく。

読んでておもったのが。
(ネガティブなことになっちゃうんだが)
「場面がわかりづれえよ」で。

アマゾンのレビューをみても。
場面が切り替わったときに
それがどこなのかよくわかんない
的なのがけっこうあった。

それが表題「どの視点から見てるのか」で。

アマゾンのレビューにあったとおり。
物語とは関係ねえ状況描写がやや冗長で。

場面が切り替わった直後。
それが俊也の話なのか、阿久津の話なのか
はたまたその他の話なのか
ってのが。

たとえば、誰かに会いにいくとき。
その道のりのどうでもいい風景とか
そういうのが、延々と語られてて。

「おめえ作家のそういう
いらねえ文学表現アッピール的なの、
マジいらねえから」
おもったりもしたんだが、措いて。

でもそれは視点が、
たぶん意図的になんだろうけど
バラバラだったから
よけいわかりづらかったんだ、と。

たとえば、ブログだとしたら。
主語は「おれ」じゃないすか。
じぶんからの視点。私小説的な。

かたやたとえば、主語は「著者」。
物語を、天の声視点で語る。

小説ってだいたい、どっちかなのね。

私小説として、主人公目線か
天の声として、俯瞰して物語を語るか。

『罪の声』は、そこがグラグラで。

あるときは著者(俯瞰)だったり、
あるときは俊也目線だったり、
あるときは阿久津目線だったり、
あるときはまた違うひと目線だったり。

俊也視点なら
「ここは俊也の話だな」ってわかるけど。

たとえば。
「俊也と阿久津が行動をともにする」
って場面で、それがどうも一人称なんだが
どっちだかわかんない。

冗長な状況描写うんぬんよか
そこで、場面の変わり目で
話にすっと入っていけない。

みたいなことがあって。

ウェブを徘徊していたら、この作品。
担当編集が3人もいて、それぞれ
独自にダメ出しをしてくるとかいうし。

その視点のブレって、たぶん
なんらかの狙いなんだろうけど。

(その有意な意味は、あるとしても
よくわからなくて、ただ戸惑っただけ)

あ、こう言うと。
なんかディスってる風になっちゃったが。
そんなんじゃなくって。

「そういうもんだ(視点グラグラ)」
ってわかったら。

「じゃあ、切り替わったいまの場面は
いったい誰目線で語られるんだぜ?」
って考えることも、楽しめるようになった。

ので、全般的に楽しかったでーす
(メダパニぇ。。。)

火曜夜にせしめて。
「これ、おもしろいな」おもったので。

朝と夕に、隙間時間を最大活用したゆえ
UC(お百度)は今週まさかのゼロだし。

400ページぐらいある長編。
いつまでもひきずるのもナンなので
きょう土曜にケリをつけちゃおうって、
夕方まで籠城。走らず。

そんなわけで。 さてと、読み終わったことだし、
明日からは心おきなくジョグできるぜっ(棒)