キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

ぎっちょについて

利き手にかんすること。
どうやら、この調子でつづければ
1まとまりになりそうなので、カテゴリーを設けた。

ところで。
おれのクロスドミナンスは
「ぎっちょ発祥」
とおもうんだが、それを語る前に
「ぎっちょ」
という言葉について、整理をつけておくひつようがある。



整理、というのは
「差別的か差別的じゃないか」
なんだけど。

ケツロンからいうと、
おれは差別的ではないと考えてる。

自分がぎっちょである身として、
この言葉をとっても気に入ってもいる。

だから、今後も確信犯的に遣いつづけるつもり。
正しい意味での確信犯として。



あえて差別という言葉を持ち出すなら、
ぎっちょの持つ、ゼツミョーな被差別感は魅力的だ。

「ゼツミョーな被差別感と、そのウラにそそり立つある種の特権意識、選民意識」
という、アマノジャク類の大好物ド真ん中。

なんか、キャッチーだし。



語源を調べると、2つの説がある。

1つは「毬杖」。
毬杖と書いて、「ぎっちょう」と読む。
その転訛。という説。

毬杖ってのは平安時代のホッケー。
ケマリ→サッカー
ギッチョー→ホッケー
みたいな。

辞書などで調べる感じでは、
差別的なニュアンスは、ない。



あるいは、

器用(きよう)を「きっちょ」という
(不器用のことを「ぶきっちょ」とかいうでしょ)

「左利きは器用である/器用にみえる」
から、左器用(ひだりぎっちょ)

「左」がとれて、
「ぎっちょ」だけで左利きをあらわすようになった。
という説。

この流れでも、差別の匂いは、ない。

それがおれの鈍さorバカさゆえなのかは
わからないから、措く。



ただいっぽうで、ひと昔前
「当然、右利きに矯正するもの」
という価値観があったように、

秘すべきこと、みっともないこと、礼儀的でないこと
としてきた文化の歴史もある。

そんな背景で遣われる「ぎっちょ」は
一点の曇りもない(?)差別、侮蔑の対象だ。



ん? おかしいぞ。
そんなマジメな語りではないはずだぞ。
まあ、中身がそんなにあるわけじゃないから、いいか。

秘すべきこと。
秘めごと。
なんかやらしさ加減が、いい。
いや、言いたかっただけ。



話を戻す。

ぎっちょ = 差別、侮蔑の対象。

とか、背景は知らないが、
「不愉快な言葉である」
とする人も、いる。

「やーい、ぎっちょ」
といじめられた経験とかがあれば、
なおさらだ。

それを否定するつもりも
論破するつもりも、ない。

みんなちがって、みんないい。



くり返すが。

おれは「ぎっちょ」という言葉、とっても気に入ってる。
だから、今後も「ぎっちょ」を遣いつづける。

もしそれで誰かの気分を害したら、
ゴメンナサイ、だ。



遣うシーンは一人称に準じてる。

二人称ではまず、「サウスポー」を用いて、
もんだいがなさそうだったら「ぎっちょ」を投入する。

プライドもある。

心地のいい被差別感はあるが、
差別的な感情はひとつも、ない。

「右利きではない人」みたいな
言い換えこと悪意のカタマリ
をする気もない。

不愉快だとおもう人のことは
常におもい描いている。

というわけで、
今後も自嘲的に確信犯的に「ぎっちょ」を遣いつづける。