これぞ「ザ・いらねえ情報」というか。
「ああ、またはじまりましたね」
的なことかもしんないケド。
まあ、訊いてくださいよ。
って、どんなトーンだよ?
*
9月の終わりごろだったか、から
JogNoteを非公開にした。
*
「JogNote」ってのは
日々のジョグを記録しとくサイトで。
それを日・週・月・年ごとに見直せたり
「去年のきょう」にすぐアクセスでけたりと
一覧性も抜群だったりするので。
じぶんのジョグを俯瞰するには
完成度が非常に高いツールで。
走りはじめたころから使っている。
あと、ブログとかSNSみたいに
おともだちと交流したり
おともだちの練習をながめて
いいね!とかスゴイね!的なボタンを
押し合ったりできる。
(雑な説明ぇ。。。)
*
走りはじめて何年か経って
「ブログ×マラソン」なひとたちと
JogNoteでもつながるようになり。
ヒトサマの練習をながめては
刺激を受けたり。
こんな方法もあるんだっておもったり。
ケガしないかハラハラしたり。
早く復活してほしいなっておもったり。
逆に、てめえが暗黒の世に堕ちてるときには。
ワケワカメな嫉妬をしたり。
暗黒の闇がよけい深くなったり。
それが極まって非公開にしたり。
ふたたび、公開するようにしたり。
してきた。
*
あ、結論から言いますね。
「JogNoteは公開する必要がないツール」
おれは、ね。
たぶん、こんりんざい公開することはない。
*
いちおう言っとくと。
今回、非公開にしたのは上記したような
「暗黒の闇がよけい深くなったり」
「それが極まった」ってんじゃない。
*
たしかに、土日のきのうきょう。
ほえあいず・よすがオネカン? っていうか。
多摩川の花火大会を観るってんで
河川敷に行く200歩以外、
超絶籠城をキメこんで
『信長協奏曲』を一気読みしてたんだが。
そういう土日の動静は
末尾で言うとして。
そもそも。
JogNote公開うんぬんは
先月下旬からのことだから
きのうきょうのクサクサとは
まったくの関係ぶうなはずで。
そんなんわけで、冒頭でほざいたとおり
「ああ、またはじまりましたね」
とは、別。
*
。。。
*
ブログなんかを書いていると
じぶんの行動や考え、
大げさにいうと思想みたいなものも
それとなく、だだ漏れするわけで。
そもそも、それをよしとしてやってる。
*
いっぽう。
読む人がいる・いないとか
多い・少ないにかかわらず
「全世界にさらしてる」
には変わりはないわけだし。
公開設定にしてあるってことは
多少なりとも「人目にさらす」
ってことを意識するわけで。
*
キクチなんかはたぶん、
厚顔無恥度が、高いほうだから。
「ブログ」は。
人が求めてることとか考えに入れず
じぶんが書きたいことや
近未来のじぶんが知りたそうなことを
書いてるし。
「ツイッター」も。
おんなじようなスタンスで。
それがいいのかよくないのかは別にして、
KY(超絶流行語)度が高いっていうか、
「空気読んだら負け」ぐらいおもってて。
他、SNSもおんなじ。
*
でね、でね。
ブログにせよ、SNSにせよ。
人目にさらすことが前提になってたり
コミュニケーションが介在したりして。
ってのは、いい意味で緊張感になるし
反応があるとうれしかったり
アクセスが多けりゃうれしかったり、すんだが。
*
「人目にさらす弊害」
ってのも、たしかにあって。
それは、ものすごくはしょっていうと。
「すげえ広い意味での『SNS疲れ』」
見られてることを意識して書く。
反応があれば、うれしい。
*
いっぽう。
「反応」に慣れてくると
その有無とか多寡が気になる。
反応が薄いと
「おれは間違ったことをしてんのか?」
ぐらいのことを、おもう。
*
いやいやいやいや。
「間違ったことしてんのか?」は
けしてそうじゃなくって。
わかりやすく大げさに言ってるだけなんだけど。
ようするに、
「記入する=反応を求める」
的なことに、目的が転換する。
無意識のうちに。
*
ああ、こういう
わりと大切なことを言おうとするときって
こんなん、長く書くべきじゃねえんだよな。
いろいろ、うすぼやける。。。
*
ブログ(=すき勝手なこと言う)
は、公開してていい。
ツイッター(=すき勝手なこと言う)
も、公開してて支障はない。
ただ、ジョグノートはどうよ?
じぶんがその日。
「どういう体調や気持ちでジョグに臨み」
「けっか、どういうことになって」
「それに対して、じぶんはどうおもうか」
「『線』として、どう連綿してくか」
だけが、知りたいの。
走り終わってシャワー浴びてパソコンに向かって
走ってからさほど時間が経ってない熱さと
いっしゅん間を置いてアタマ冷やしたのの
ちょうどいい塩梅なとこでの
「おれの走った記録の振り返り」
を記録しておけさえすれば、それでいいの。
*
じぶんと向き合えさえすればいいことで
エンターテインメント性はひつようない。
ビタ一文。
*
それが、公開してると
意識してなくても「さらす」を意識する。
いいね!スゴイね!を、意識する。
意識することによる
「ドヤッ!」も「てへぺろ」も
「練習日誌」としては、ただの無駄。
そりゃあ、じぶんのなかで、つど
「ドヤッ!」も「てへぺろ」もあるけど。
それは、じぶんでおもってればいいだけで
ひとにお見せするようなもんじゃない。
のね。
*
もっと、根本的なもんだいとして。
「じゃあ、ブログはオフラインで
日記書いてりゃいいじゃん」とか。
「ツイッターは、フォロー認めず
完全に閉ざしてりゃいいじゃん」とか。
あるが、それはメリハリのもんだい。
あるいは、別のもんだい。
*
なので、JogNoteを
さらす必然性は、おれにはない。
って、ことにした。
よしんば、さらしたいことがあれば。
ブログっていうさらす場があんだから
そこでさらしゃあ、いい。
っていう。
*
「(世間に)開く・閉じる」って意味では
JogNoteを「閉じる」ことによって
おれはなんか、ものすごく身軽になった。
ジョグって、しょせんただの趣味じゃん。
でもいっぽうでまがりなりにも
何年も取り組んできた趣味じゃん。
それに対して、
「おめえはどうなのよ」
って、もっといい意味で内向きに
ちゃんと向き合える、非公開にすれば。
(ような、気がする)
*
たぶん、いまみたく走るのやめても
おんなじように向き合えるっていうか
向き合い方がわかったような気がする。
*
ってのは逆説的に。
ブログをジョグ日誌みたくしてるひと
すげえな、よくできるな。
ツイッターで「こんくらい走りましたあ」
いちいちつぶやくひととか
几帳面だな、すげえな。
って、つくづく感心する。
嫌味とかじゃなく。
*
だからどうだってんじゃない。
おれはそうだってだけの話。
走るのも走らないのも、
おれ一人のもんだいなわけで。
中途半端な承認欲求って、こわいね。
それと離れたとこにいる部分がないと
にんげんが腐っちゃうね。
おもったおもいましたとさ。
*
。。。
*
日記。
<土曜>
箱根駅伝の予選会って
日曜だとおもってたのね。
だから、よすがオネカンをカマそうと。
で、ちょっとねぼうしたら
もうすぐ箱根の予選会がはじまるっていう。
テレビで箱根の予選会を観る
↓
必死にみすぎて疲れる
↓
とりあえず飯食う。ねむくなる
↓
寝て起きたら、夜。花火見て寝る
<日曜>
6時に目覚ましをかける。雨予報。
雨だったら、新横回廊。
降ってなけりゃ、オネカンって作戦。
6時起きる、ざあざあ降り
↓
これじゃ、オネカンむりだな
↓
新横まであと30分だけ寝よう
↓
起きたら9時。新横いけねえ
↓
あまつさえ、ドピーカン
↓
飯食いながらちょっと考えよう→二度寝
↓
目覚めたら夕方の5時
↓
以降、なうまで