キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

JogNoteを非公開にしたわけ。人目にさらすことさらす必要のないこと、みたいなこと

これぞ「ザ・いらねえ情報」というか。

「ああ、またはじまりましたね」
的なことかもしんないケド。
まあ、訊いてくださいよ。

って、どんなトーンだよ?



9月の終わりごろだったか、から
JogNoteを非公開にした。



「JogNote」ってのは
日々のジョグを記録しとくサイトで。

それを日・週・月・年ごとに見直せたり
「去年のきょう」にすぐアクセスでけたりと
一覧性も抜群だったりするので。

じぶんのジョグを俯瞰するには
完成度が非常に高いツールで。
走りはじめたころから使っている。

あと、ブログとかSNSみたいに
おともだちと交流したり
おともだちの練習をながめて
いいね!とかスゴイね!的なボタンを
押し合ったりできる。
(雑な説明ぇ。。。)



走りはじめて何年か経って
「ブログ×マラソン」なひとたちと
JogNoteでもつながるようになり。

ヒトサマの練習をながめては
刺激を受けたり。
こんな方法もあるんだっておもったり。
ケガしないかハラハラしたり。
早く復活してほしいなっておもったり。

逆に、てめえが暗黒の世に堕ちてるときには。

ワケワカメな嫉妬をしたり。
暗黒の闇がよけい深くなったり。
それが極まって非公開にしたり。
ふたたび、公開するようにしたり。

してきた。



あ、結論から言いますね。

「JogNoteは公開する必要がないツール」
おれは、ね。
たぶん、こんりんざい公開することはない。



いちおう言っとくと。
今回、非公開にしたのは上記したような
「暗黒の闇がよけい深くなったり」
「それが極まった」ってんじゃない。



たしかに、土日のきのうきょう。
ほえあいず・よすがオネカン? っていうか。

多摩川の花火大会を観るってんで
河川敷に行く200歩以外、
超絶籠城をキメこんで
『信長協奏曲』を一気読みしてたんだが。

そういう土日の動静は
末尾で言うとして。

そもそも。
JogNote公開うんぬんは
先月下旬からのことだから
きのうきょうのクサクサとは
まったくの関係ぶうなはずで。

そんなんわけで、冒頭でほざいたとおり
「ああ、またはじまりましたね」
とは、別。



。。。



ブログなんかを書いていると
じぶんの行動や考え、
大げさにいうと思想みたいなものも
それとなく、だだ漏れするわけで。

そもそも、それをよしとしてやってる。



いっぽう。
読む人がいる・いないとか
多い・少ないにかかわらず

「全世界にさらしてる」
には変わりはないわけだし。

公開設定にしてあるってことは
多少なりとも「人目にさらす」
ってことを意識するわけで。



キクチなんかはたぶん、
厚顔無恥度が、高いほうだから。

「ブログ」は。
人が求めてることとか考えに入れず
じぶんが書きたいことや
近未来のじぶんが知りたそうなことを
書いてるし。

「ツイッター」も。
おんなじようなスタンスで。
それがいいのかよくないのかは別にして、
KY(超絶流行語)度が高いっていうか、
「空気読んだら負け」ぐらいおもってて。

他、SNSもおんなじ。



でね、でね。
ブログにせよ、SNSにせよ。

人目にさらすことが前提になってたり
コミュニケーションが介在したりして。

ってのは、いい意味で緊張感になるし
反応があるとうれしかったり
アクセスが多けりゃうれしかったり、すんだが。



「人目にさらす弊害」
ってのも、たしかにあって。

それは、ものすごくはしょっていうと。
「すげえ広い意味での『SNS疲れ』」

見られてることを意識して書く。
反応があれば、うれしい。



いっぽう。
「反応」に慣れてくると
その有無とか多寡が気になる。

反応が薄いと
「おれは間違ったことをしてんのか?」
ぐらいのことを、おもう。



いやいやいやいや。
「間違ったことしてんのか?」は
けしてそうじゃなくって。
わかりやすく大げさに言ってるだけなんだけど。

ようするに、
「記入する=反応を求める」
的なことに、目的が転換する。
無意識のうちに。



ああ、こういう
わりと大切なことを言おうとするときって
こんなん、長く書くべきじゃねえんだよな。
いろいろ、うすぼやける。。。



ブログ(=すき勝手なこと言う)
は、公開してていい。

ツイッター(=すき勝手なこと言う)
も、公開してて支障はない。

ただ、ジョグノートはどうよ?

じぶんがその日。
「どういう体調や気持ちでジョグに臨み」
「けっか、どういうことになって」
「それに対して、じぶんはどうおもうか」
「『線』として、どう連綿してくか」
だけが、知りたいの。

走り終わってシャワー浴びてパソコンに向かって
走ってからさほど時間が経ってない熱さと
いっしゅん間を置いてアタマ冷やしたのの
ちょうどいい塩梅なとこでの
「おれの走った記録の振り返り」
を記録しておけさえすれば、それでいいの。



じぶんと向き合えさえすればいいことで
エンターテインメント性はひつようない。
ビタ一文。



それが、公開してると
意識してなくても「さらす」を意識する。

いいね!スゴイね!を、意識する。

意識することによる
「ドヤッ!」も「てへぺろ」も
「練習日誌」としては、ただの無駄。

そりゃあ、じぶんのなかで、つど
「ドヤッ!」も「てへぺろ」もあるけど。
それは、じぶんでおもってればいいだけで
ひとにお見せするようなもんじゃない。
のね。



もっと、根本的なもんだいとして。

「じゃあ、ブログはオフラインで
日記書いてりゃいいじゃん」とか。

「ツイッターは、フォロー認めず
完全に閉ざしてりゃいいじゃん」とか。

あるが、それはメリハリのもんだい。
あるいは、別のもんだい。



なので、JogNoteを
さらす必然性は、おれにはない。
って、ことにした。

よしんば、さらしたいことがあれば。
ブログっていうさらす場があんだから
そこでさらしゃあ、いい。
っていう。



「(世間に)開く・閉じる」って意味では
JogNoteを「閉じる」ことによって

おれはなんか、ものすごく身軽になった。

ジョグって、しょせんただの趣味じゃん。
でもいっぽうでまがりなりにも
何年も取り組んできた趣味じゃん。
それに対して、

「おめえはどうなのよ」

って、もっといい意味で内向きに
ちゃんと向き合える、非公開にすれば。
(ような、気がする)



たぶん、いまみたく走るのやめても
おんなじように向き合えるっていうか
向き合い方がわかったような気がする。



ってのは逆説的に。

ブログをジョグ日誌みたくしてるひと
すげえな、よくできるな。

ツイッターで「こんくらい走りましたあ」
いちいちつぶやくひととか
几帳面だな、すげえな。

って、つくづく感心する。
嫌味とかじゃなく。



だからどうだってんじゃない。
おれはそうだってだけの話。

走るのも走らないのも、
おれ一人のもんだいなわけで。

中途半端な承認欲求って、こわいね。
それと離れたとこにいる部分がないと
にんげんが腐っちゃうね。

おもったおもいましたとさ。



。。。



日記。

<土曜>
箱根駅伝の予選会って
日曜だとおもってたのね。
だから、よすがオネカンをカマそうと。

で、ちょっとねぼうしたら
もうすぐ箱根の予選会がはじまるっていう。

テレビで箱根の予選会を観る

必死にみすぎて疲れる

とりあえず飯食う。ねむくなる

寝て起きたら、夜。花火見て寝る

<日曜>
6時に目覚ましをかける。雨予報。
雨だったら、新横回廊。
降ってなけりゃ、オネカンって作戦。

6時起きる、ざあざあ降り

これじゃ、オネカンむりだな

新横まであと30分だけ寝よう

起きたら9時。新横いけねえ

あまつさえ、ドピーカン

飯食いながらちょっと考えよう→二度寝

目覚めたら夕方の5時

以降、なうまで

20180905