キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

「もしも矢沢永吉が桃太郎を朗読したら」それ、サイコー

さいきん、表題のコレにハマっちゃって。

声優が朗読してるこういうのもあって。


なんだかシャバダバなんだが。


こういうのって、読むとき。
それぞれの内なるYAZAWAが
脳内再生してくるよね。

そういうもんだよね。

とかは、どうでもよくって。



おれもこういうの、やってみてえ!
っておもったわけ。
俺いるし、これ、余裕。

とか、なんでYAZAWA「風」に
モロ感化されちゃってんのかは、措いて。



おれもこういうの、やってみてえ!
っておもったわけ。

「キクチヒロシが桃太郎を朗読したら」

なんかちょっと、オモロそうじゃないすか。
wktkするじゃないすか。
どうなるんだろう?

って、おれだけがね。



で、やりはじめてはみたものの。
ナニコレ、チョームズイ。

だいいち「じぶん風」ってのがどんなんだか
ぜんぜんわかんないし。

なんとなくソレっぽいことすりゃいいのかな
「措く」とか言っときゃいいんだろうか。
言いたいことを言わなきゃいいんだろうか。

って、考えれば考えるホド、わっかんねえ。
じぶん風。

その残滓(↓)。
むかしむかし。とあるところに、
おじいさんとおばあさんが住んでて。

おじいさんは山へ芝刈りに
おばあさんは川へ洗濯に行ったらしいんだが。

おばあさんが川で洗濯してると。
大きな桃がドンブラコ、ドンブラコって、
川上から流れてきたと。

川上っていやあ、アレだよね。
「哲治」か「憲伸」の二者択二って感じ。
二者択二?

「止まって見える」と「明治大学うっす!」
の二者択二ぇ。。。

「ドンブラコとドラゴンズって何となく似てるよね」
っておもってたりおもわなかったりする。

打率、10割10分10厘だしね。

あるいは麻衣子。。。
とか、どうでもいいな。措く。
もう、アレ。
桃太郎、産まれてすら、いねえ。

よしんば。
おばあさん、桃ひろってすらねえのな。

ここで気が遠くなって、やめちった。



ヒトサマの語り口なり文体をパクるのは
(これもすごくむつかしいんだけど)
できないことはない。かもしんない。

かたや。
この矢沢のやつにみたいな感じで
じぶんっぽいていで何かをするのって
たぶんぜったい、できない。

ふだん「じぶんっぽい」的なこと、とりわけ
ブログをよく更新するようになってから
どこかアタマの片隅で「じぶんの見られかた」
みたいのはたぶん、知らず知らずのうちに
いつも意識してるんだろうケド。

にもかかわらず。
こんくらい、できない。

もんなんだなあって、よくわかった。
よおくわかりましたとさ。

というだけの、ハナシ。



。。。



土日だし、いつもにも増して
誰も見てねえだろうからって、以下余談。

あくまでも、たとえ話ね。

たとえば
「じぶんの限界を超えるぐらい頑張って走った」
「けっか、ちょっと限界超えちゃって」
「えまーじぇんしー的なことになっちゃって」
「注意喚起ふくめて、そのテンマツを真摯にブログ書いた」
みたいなことが、あると、する。

かたやたとえば。
「ウタゲが楽しすぎて」
「じぶんの限界を超えるぐらい飲んじゃって(自業自得)」
「まったく記憶にないのはいいとしても」
「その間に、かならずヒトサマに迷惑かけてるはずで」
「それを『覚えてねえ』って免罪符にくるんで」
「意気揚々と(ってわけでもねえけど)ネタ的にブログでさらす」
ってことが、あると、する。



もう一度言う。
あくまでも、たとえ話。



そんなん。
後者のほうが、1京倍ぐらい叩かれてしかるべきじゃん。
叱られるべきじゃん。本来。

いや、叩いてくれってんじゃなくて
事象そのものを比較検討したバヤイ。



何を言いたいかというと。
前者的なことは、たしかに。
反省すべき点はすごくあるかもしれない。

カレが今後、走ったりブログを書いたりしたいな
とふたたびおもったとしたら。

その経験をものすごく活かしたら
ものすごくおもしろい新展開になる。
んじゃないかと、おもう。

なので、バッチリチリバツリカバリーして
バツグンにおもしろくてどこか自虐的な
相も変わらねえ感じのブログを読みたい。

おれなんかただの第三者だし
思慮も浅いただのクソバカだから
そういうブログを読めれば、それサイコー
(矢沢なてい、謎のフッカツ)。