たまに手に取っては一気に読む
初版が1982年というから、もう26年前の本。
大学1年生のころ、音楽をとおして著者である早川義夫の存在を知った。
彼が南武線沿線で本屋を経営している(正確にはそのころにはもうたたんでいたかも)という情報も仕入れ、こういう著書があることも知り、さっそく本屋で買い求めた。
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表題のとおり、たまに手に取っては一気に読む。
決まって夏の今ごろ、である。
もうけっこうな回数読んだのでぼろぼろになり、現在手元にあるのは3冊目。
26年前の出版にかかわらず、まだ紀伊國屋の棚には置いてあるんだよね、この本。
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『ぼくは本屋のおやじさん』はひと言でいうと、
町の本屋さんの奮闘記。
かつてどこかで見た推薦文には
「いわゆる町の本屋さんを開きたい人には、実践的な経営学として非常に有用な1冊」
とあった。そういう見方もできる。
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おれが音楽も含め、早川義夫に惹かれつづけている理由は、
この本にすべて詰まっている。
要するに、暗いしかっこう悪いのだ。
音楽は(15年前にフッカツしてからのはほとんど聴かないので知らないが)、底抜けに暗いしヘタクソ。
この本も、文章は決してうまいとはいえない。
おれが「本をつくる人」として、まっとうに文章を直したら、たぶん惨殺死体の現場みたいに原稿が赤ペンでまっかっかになるであろう。
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ただ。
ふつう、ヘタクソな音楽なり文章は、聴いたり読んだりするのに耐えないもんだが。
彼の音楽なり文章は、一気に聴いたり読んだりできる。
それは。
ヘタクソをカバーするだけの、パッションというと耳ざわりがよすぎる、体の中心のさらに奥の、ほんとうに内なる部分から出たホンネが含まれているからなんじゃなかろうか。
コンプレックスはコンプレックスのまま、隠すことも正当化することもなく、ちゃんと言い切る。
たぶんこの本の編集者も、
彼のその持ち味(?)がわかっているから、
「まっとうに」赤字を入れることなく、かっこう悪いまま、本にしたんだろう。
ほんとうにそうだとしたら、仕事としてとてつもなく、深い。
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できているかどうかは別にして、
わかりやすく、正しい日本語を書くことを常に心がけている。
(ブログではあえて崩すことも多いケド)
でも、
「わかりやすく正しい日本語で構成された文」と、「ヘッタクソだけど、すごく伝わる文」。
はたしてどっちが読者にとって益になるのか。
こういう良書を目の当たりにすると、逡巡してしまう。
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昨年の秋、福島を旅した。
ミーハー的に野口英世記念館に立ち寄り
英世の母シカの直筆の手紙を目の当たりにした。
文盲だったが、遠く外国にいる愛息に手紙を書きたい一心でおぼえた、ひらがな。
文章はめちゃくちゃ。
にも関わらず、手書きだったことも手伝って、文面からシカの想いがビンビン伝わってくる。
一読した後、おれはしばらく手紙の前から動けなかった。
大げさでもなんでもなく。
それと同じ感覚。
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また来年の夏のいまごろ、
おれはこの本をなんとなく手に取っては、
一気に読んで同じ感激を覚えるんだろう。