キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

ブログの匿名性について、まったく匿名してねえおれだからこそ言えることもあるかも、みたいなこと

ブログの匿名性。
って言いぐさが合ってんのかどうかはわかんないが。

このネタが周辺でにわかに巻き起こってはいるのに、タッチすんのはよしとこうとおもってた。

いや、スタンスとかポリシーの話じゃなく、単純に、この話の流れでおれが出てく資格はねえだろうってんで。

なんせ、「キクチヒロシ」ってハンドルネームで、「キクチヒロシ ブログ」って題名のブログを書いてる、その張本人だし。


じゃあ、なんで。
そういうハンドルネームとブログ名にしたか。
については、前に何度か触れてるから説明をおもくそはしょると。

「考えるのがめんどくさかった」
「いままでなんの支障もきたしてない」
ってだけのことで。

それは、本名らしきものを掲げてることによる、たまに言われる勇気や度胸があるだとか、そんなかっちょいいことで、あるはずもなく。

むしろきょうび、こんなご時世、うんちゃらリテラシーが低すぎとは、胸を張っていえるw



まあ、じぶんのこの環境がたぶん相当めぐまれてることはたしかで。

家族はブログの存在を知ってるが、おれに言わせりゃ身の毛もよだつほど無関心なので、それをいいことに家族のネタを書いてもなにも言われない。

家族旅行のこととかね。
にょうぼうとのエピソードとかね。



たとえば、こないだUkeさんと飲んだ翌日、ムスメっこに。
「ウケ(Uke)とかいう、千葉のほうにいる天然ウクレレおじさんが、体育祭のやつ、すげえ読んでくれたらしいよ」
って伝えても、ふーんそうていどだし。



承認欲求とはちょっと違う意味で。
ブログを更新するとmixiとかFacebookに通知される設定にしてたので、そこでつながってた(る?)小中大の知り合いには筒抜けだし。

だからといって、それをどうともおもわなかった。
むしろ、読んでみろくらいのことをおもってた。かもしれない。



「マラソン」っていう、一般的に特異な話にまつわることが大半なので、ほぼ誰も読んでない感じだったが。

「読まれる読まれない」ってことよか、「読もうとおもえば読める環境にあるない」ってことのほうが、たぶん重大なテーマで。

それを重大なテーマとは捉えられなかった脳みその軽いキクチは。
「もし、そういうむかしのつながりのひとたちに読まれてたらオイシイ(まあ誰も読まねえだろうケド」

ぐらいにしか、考えていなかった。

そうやって、ある種の意識が低いまま更新情報を垂れ流してたSNSから。
ちゃんと読んでくれてるらしいひとがいた、ってわかったときは、心底うれしかった。



たぶんおれは、そこらへんが希薄というか、危機感がないんだとおもう。



今年の夏に、じぶんの小学校の同窓会にいったとき。
闘病記のブログを書いてる子がいて。
それを、おれはたまたま見つけてずっとチェックしてて。

顔を見合わせすらせず
「ブログ、すげえ読んでるよ!」

ってったのは、じぶんアッピールというより、そう言うことによって「あなたを応援してるひとはここにもいます」的な意味で言ったんだが。



あまつさえ、それに彼女は喜んでくれたが。
おれは彼女が喜んでくれてよかったなあって、おもったが。

実のところどうだったんだろうって、「ブログの匿名性」に鑑みたとき、おもいなやましんだ。



彼女は。
こっちから表明したから、「読まれててうれしい」ってていをとっただけで。

ブログという、ビミョーに仮想っぽくもある舞台だからこそ、表明できたこともあったのかもしんないし。
実在の彼女を知ってるぐらいの近さのひとに認識されるのは、実は彼女にとって「重い」「うっとうしい」「うざい」ことだったのかもしれない。

だとしたら、ごく天然に、おれはしてはいけないことをしたのかもしれない。

今回、噴出しかかってるもんだい一連をななめにみながら、ちょっとおもった。
いや、知らねえけど。



おれはこうして、いけしゃあしゃあと。
じぶんの個人情報を、垂れ流し続けてる。
(いまのところ)それで何のもんだいもないから、いい。

でも、たとえば。
「リアルなじぶんを知られたくない」って程度のなかには。

「社会とのしがらみとか、リテラシーの高さでそうしてる」ひともいるし。

「リアルとバーチャルの存在を、ちゃんと切り分けたいって方針」のひともいるし。

「素性がばれたら、身の危険に直結する」ってひともいるし。

おれみたく、「そんなのどうでもなんともない」ってひともいる。



着地点がきれいごとじみて、ナンだが。
上記した立場の違い(?)には、軽重の差なんてなくって。

当人がどうおもうか、どうわきまえてるか(いないか)ってことだけが重要で。
そこを周りがないがしろにしたら、なにも成り立たなくなっちゃう。

そういうのを、尊重っていうのか忖度っていうのか、見て見ぬ振りっていうのかはわかんないケド。

少しでも「気持ちよく過ごせる」場を崩さないように、気を遣うでもなく気を遣う。
ってのが、ますます重要なんじゃないかな。

って、おもったりおもわなかったりする。



たしかにそれは「きれいごと」であるかもしんないが。
「ちゃんときれいごとしとく」って、けっこう根性や忍耐も要するじゃん?
「王様の耳はロバの耳なんだけどね」ってあえて飲み込んどくのって、どえらいことだよな?

みたいなことを、考えたりした。

なので「キクチ」をオープンにうそぶいてるじぶんは
そのメリットとリスクを、いつも頭の片隅には置いて、ないかもしれない危機を想定しておく。

が求められてるんだよねって、わかりつつある。



とか言いつつ、やっぱり。

「キクチヒロシ」ってハンドルネームで、「キクチヒロシ ブログ」ってのをいけしゃあしゃあとやってるひとは、ぜんぜん鬼気迫るっていうか、切迫感的なものがなくて笑ける。

おめえ、なんなんだよ!と。


だからどうだってんじゃない、ぽえむ。