キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

記憶が薄まるよしあし、みたいなこと

3月27日は父親の命日だってんで。
今年で13回忌だってんで。

こないだ、家族で飯を食いにいった。



こういう誘惑。
緊張感が皆無すぎる。
前日にウタゲで召しすぎたので
もはや迎え酒っていうより
「2次会」に近いぇ。



あまつさえ。
「墓参りしたついでに、飯を食う」
ってんで、前に一度いった近所の
酒屋の角打ち的な店を予約したんだが。

その日は雨で寒くて。

墓は駅からけっこうあるし。
急坂を上った丘の上にあるしってんで。
墓参りをカツアイして、飯だけ食うことにした。

ことほどさように。
12年も経つと、もはやふつうのウタゲ状態。
「おめえソレ、どんなダチョウ倶楽部だよ」
妹にふつうに、そういうツッコミを受けたり。

ほんの数年前までは、まだ。
思い出してはけっこう
おセンチにもなってたのにな。
The Day(2015/03/26)



こういうのってちょっとさびしいな。
とおもういっぽうで。

これはこれでしようがないことだし
あながちよくないことばかりでもないのかな()
とも、おもう。



なんていうか。

父親が亡くなったのはムスメっこが1歳の時で。
ムスメっこは彼のことをまったく憶えてない。

それは、おれから見たら
「惜しい」「もったいねえ」ことなんだが。
ムスメっこにとっては関係ぶうで。
じいじの記憶なんかなくても
何の支障もあるはずなく、すくすく育ってる。

階段の踊り場に掛けてある
父親が揮毫した軸は、彼女にとって
ただの「むかしから家にある風景」以上の
なんの意味もない。



これが、変に「語り継ぐ」とか
よけいな使命をつくっちゃったりしたら
たぶん、ムスメっこのふだんの暮らし、
どこかしらキュークツになる。
かもしんないから。

記憶なんて薄れちゃって大歓迎なんだぜ。
みたいな、な。

おう。
言いたいことがよけいわかりづらくなる
パッターン必定だわコレ。



おんなじふうに、あと20~30年のち。
母親がいなくなり、
おれがいなくなり
妹がいなくなりゃ。
父親の存在を知るひとはいなくなり。

くり返しで
母親の存在を知るひとも
おれの存在を知るひとも
やがていなくなる。

父親がいなくなってからの12年で
そうだったように。
それでも地球は、ふつうに回りつづける。


大きくぽっかり空いた心の穴も、
気にならない程度に、せばまってく。
おもったよか、わりとすぐ。

それでいいんじゃないかと、おもう。



そんなん感じで。

じぶんの「生きる意味」「生きた意味」なんて
ぜんぜん大したことじゃないんだから
考えるひつようも、残そうとするひつようも
じつはビタ一文なくって。

いまを精一杯まじめにふざけて生きて
それで楽しりゃ、エニシングOKなのかな()

ちょっとむなしい気もしないでもないが
それが真理なのかも。
おもったりおもわなかったりした。
ぽえむ。

カルペディエム。