漫才やらコントやら落語やらお芝居やらで
おもしろさの要素は間(ま)で決まるんだぜ。
みたいな、みんな知ってるようなことを
クソシロートが高説ぶりたいわけじゃなくて。
でもちょっと、知った口をききたくって。
間(ま)についての、おもいつき。
フラッシュアイディーア。
*
あ、先に言っとくと。
おれ自身は、というと
間(ま)というものが致命的に使えなくて。
だからこそ、このクソ辺境でもそうなように。
伝えたいことがあると
とりあえず言葉を重ね、だらだら長くすりゃ
どっか拾ってもらえんだろ、とおもってる。
(でもって、それがことごとく裏目に)
ので、間(ま)をうまく使えるひとは
うらやましくてしようがないし
トレーニング(?)によってあるていど
身につくものかもしれないケド、キホン
持って生まれた感覚なりセンスだと諦めてる。
なので、高説とか知った口なんかじゃ
けしてなくて、ただの嫉妬だ。
*
ここから、だらだら書いたんだが
いらなそうなので中略しますね。
*
間(ま)にかんして。
じぶんが、ブログで気をつけてるのは
句読点と改行。
句読点と改行がアレだと
おんなじことを書いてても、読みづれえ。
読みづれえってのはすなわち
リズムが悪い、間(ま)のとり方がなってない。
ってことで。
ブログなんてものは、
原稿用紙に書くわけじゃないので
改行の仕方とか、行アケの仕方がモノを言う
ってことも、大いにあるとおもってる。
とか、前にどっかでくり返し言ってんな。
*
でも、それっていうのは。
元あるものに細工をほどこしたに過ぎない
もので。
なんていうか。
すげえ根本的なところに戻ると。
クソブサイクが美容整形したようなもんで。
いくらカネをガンガンかけて
最高級の技術でもって手術をしたところで
素で超絶イケメンなひとには
どうやったってかなうべくもない。
みたいな。
*
たとえいくらおもしろいことを
畳みかけたところで、
間(ま)のとり方によっては
おもしろくもなんともなくなってしまう。
落語でおんなじ演題をやっても
このひとがやると何度きいても腹抱えるのに
こいつのはくすりとも笑えない。とか。
漫才のこのネタは
このコンビの空気感だからこそ笑える。
みたいなことで。
*
糸井重里の「ほぼ日」で。
糸井重里が誰かと対談する企画がすきなんだが
コレおもしれえとおもって
うへえって関心するのって
よくよく考えると、写真の使い方だったりして。
*
写真ったって、しょせん対談企画だから
せいぜい、糸井重里(とか対談相手)が
語ってる像か、笑ってる像か、
考えこんでる像。
言ってみりゃ、ただのオジサンの写真。
ビジュアル的にとくにキレイでもない。
が、その挿むタイミングがゼツミョーだったりして
それこそが間(ま)の妙だな
っておもったりする。
*
ハナシがあいまいすぎるので、たとえば。
コレは対談ではなく語りなんだが。
「ほぼ日」で、おれ的には歴史に残る
名コンテンツに「2013年あんこの旅」
っていう、糸井重里があんこの魅力を
あますところなく語る、ってのがある。
「2013年」てんだから、もう
4年近く前のコンテンツだ。
そのなかの「小豆ジャム」ってのが
もう、テキストだけで抱腹絶倒もんなのに
マジメな顔して語る糸井重里の写真が
まったく適切な場所に挟み込まれてることで
さらにその抱腹絶倒を増幅させてる。
糸井 で、ある日ぼくは、の直後のやつとか。
バタートーストに小豆のジャムをのせたら、
これはうまいだろうなぁと、自然に考えました。
*
間(ま)って、こういうこと。
むやみに射しこめばいいってもんじゃないし。
たとえば写真だとしても
オモシロ画像ならなんでもいいってもんじゃない。
ここしかねえってとこに
ここしかねえものを、挿しこむ。
あるいは、挿しこまない(何も言わない)
らへん。
間(ま)のとり方が心地いいブログって
読んでておもしれえよなあ。
そういうの、書けるようになりてえなあ。
って、おもいましたとさってだけのハナシ。
クソ辺境は、
画像をそんなに使わない部類なので
テキストだけでうまく間(ま)をとれたら
いいなあって、どうすりゃいいんだろうなって
考えるだけ考えてる。
*
。。。
*
きょうは書くネタがなくって。
途方にくれてたところ、さるインスパイアから
こんなん、どうでもいいエントリー。
なお。
きょうちょっと書こうとおもってた
「おれにとっての『萌えコース』への想い」
は、またいずれ(やんねえフラグぇ)。
*
間(ま)っていう意味では
授業中、学生がうるせえとき。
教員が「うるせえ」とか「静かにしろ」
って言うんじゃなく、しばらく黙っちゃう
ってテクも、なかなかだなあっておもう。
会議とかプレゼンでも
それで「うっ!」って目をひく
みたいなこと、あるよね。