キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の「辺境クソブログ」。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

なさけはおれのためなりっ、みたいなこと

なさけはひとのためならず。
っていうコトバがある。

「中途半端な同情は、そのひとのためにならねえぜ」
っていう意味じゃない。
おもいっきし、ブッブーーーだ。


そんなん、知っとるわい。
知っとるY。
ダイジョウブイ。
ぐらい。

昭和軽薄体、な。
嵐山光三郎、な。

そうなんでR。
Bルを飲む。

みたいな。
あれってなんかこう、ザ・時代のあだ花って感じがして
すごーくザラザラしたきもちになるときと
「いまこそ、逆にやったれ!」ってなるときが
ワルツのリズムで訪れるよね。

ザラ・ザラ・やったれ!
ザラ・ザラ・いまぞっ!
っと。

は、措く。
措くんでR。



「ひとのためをおもってしたことは、めぐりめぐって、てめえに返ってくるんだぜ」
「だから、どしどし、やろーぜ」意。

「なさけはひとのためならず」な。



そういう日本人の奥ゆかしさ。
キライではないが、ちょっとまだるっこしい。
コミットする結果が遠すぎると、何もやる気が起きなくなってしまいかねない。

ので。
「なさけはおれのためなり」

っておもうようにしてる。
おもうようにしてますとさ。
ってだけのハナシ。



まあその。ほかならねえおれのためだ。
って、おもうようにしてますとさ。
ってだけのハナシ、なんだが。

じゃあ、最終的におれのためになるには。
ベクトルがどれ方向にありゃいいか。
ってのがアタマのなやませどころで。

それがハナっから「てめえ」だと
なんか、あざとい。



っていう。
まだるっこさを最初に回避しとこうとして
オミゴトなほど、まだるっこさに首をつっこむ、的なあれね。



このベクトルを見誤ると。
けっきょく、じぶんのために、ならない。
わけで。



「ベクトル」って言葉は、むつかしいよね。

そもそも「向きと大きさ」という意味を持ってるらしいので。
「ベクトルを濃厚におれのほうに向ける」
っていう言いぐさは
「馬がうんこした馬糞をおれがくそくらえする」
みたいなおかしなことになる。

じぶんでむつかしいといいだしといて。
そんな些細なことは、ドー・デモ・イイ。



あのう。
日常においていいたとえがみつからないから。
我田引水、みたいなことでたとえてみる。



「依頼主」がいて。
「おれさまちゃん」に。
「取材対象」に話を聞いて。
「原稿」をつくってくれ。

って案件があるとすんじゃん。

「原稿」ってのはまあ
いずれどこかでさらされるとして
対象が「読み手」になるとすんじゃん。



そこで「おれさまちゃん」は。
おれさまちゃんのベクトルは、dotch?
っていう。



クールにキメるとすれば。
おれと利害関係があるのは「依頼主」なので。
どんなウソコで塗りかためようと

1)「依頼主」がマンゾクしさえすりゃ、おれさまちゃんはビジネス的に得する。

たとえ。「取材対象」が「おら、そんなこと、言ってねえ」だとしても。
たとえ。「読み手」がじゃかーんのイワカーンを抱いたとしても。
関係ねえ。



せっかくこちらからアタマを下げて。
「取材対象」に貴重な時間を割いていただくんだから。
「取材対象」が、「そうそう、そういうこと! 言わんとしてることをよくぞ表してくれました」
っておもってもらえるようなものを仕上げりゃ、いい。

2)「取材対象」の肚を落としゃ、おれさまちゃんは聞き手として得する。

たとえ。「依頼主」の意図とズレていようとも。
たとえ。「読み手」が満足できなかろうと。
関係ねえ。



「金をもらって原稿を書くってことは最終的に、読み手を満足させるってことだ」
と、むかしよく言われた。
「依頼主と取材対象の向こう側にいる、読者に向かって書きやがれ」
と、むかしよく言われた。

3)読み手が満足しさえすりゃ、おれさまちゃんは世間の目、的に得をする。

たとえ。「依頼主」が当初、猛反発をしたとしても。
たとえ。「取材対象」をただの材料として踏み台にしたとしても。



三方よし。
というか、おれも含めた四方よしならば、なんのもんだいもない。
どころか、きわめて理想的な姿。でR。

んだが、現実もんだい。
なかなかそうはいかない。



どれかひとつだけをとらなきゃいけない。
ってなったとき。

はてさて、どうするか。

正解は、ない。



正解は、ない、し。
ロジックも、ない、ケド。

おれは「(2)取材対象」が喜んでもらえるベクトルを、採る。
すなわちそれがいちばん。
「おれが喜ぶ」ということに、なる。



いや。
コレはただの姿勢のハナシで。

コレをもとに、一般的なこと。
たとえば
「おれが、マラソンでいいタイムを叩き出しましたって、ブログを書いたとき」
みたいなハナシにオトそうとしたんだが。

ダ・ン・ネ・ン。
む・つ・か・し・す・ぎ・る。

薬師丸なていで。



きょう、クライアントと飲んだ。
媒体は、雑誌広告。

もう7、8年になるだろうか。
雑誌1P分の広告を年に8回ぐらい、つくってる。

クライアントの担当者は、オーナー。
広報部だとか、広告宣伝部なんていう間接では、ない。

オーナーのアタマの中には、わりと固定されたイメージができあがっており。
それをいかにうまく、出版物としてのカタチに表していくか。
が、おれのミッション。
みっちょん。は、別人。は、措く。



その「アタマの中では固定されたイメージ」を
「出版物としてのカタチ」に表す
ってのが、ラクショーぽいケド、わりと悩ましい作業で。
なんでかっていうと。
どんなにアタマの中で固まってようとしょせん「イメージ」、ゆえ。



とくにオーナーがこだわってるのは。
25文字前後のメインキャッチ。

おれはその。
かれこれ7、8年。年に8回ぐらい。
つくってるんだが。

「そのサービスには
ビタ一文キョーミがない」うえに
「サービスを利用してみよう」
という意思もないので

しょせん、妄想でコピーをつくる。
脳みそのキンニクがミートグッバイするぐらい
アタマに汗かいて、考える、
妄想全開で。



よろこばしいことに。クライアントは
おれが妄想でつくりあげた雑誌広告の出来をよろこんでくれて。
おれが妄想でつくりあげた雑誌広告による効果を、感覚としてものすごく評価してくれてる。
ということが、わかった。



おれはなんだか、ものすごくうれしかった。

体験イズ・オールでは、かならずしもないということ。
具体的な数字を提示されたわけではないが、効果はてきめんに出ているということ。

なにより、クライアントが満足してるということを、目のあたりにできたということ。
ふだん、机の上だけで妄想を広げているだけに、なおさら。



ってのは、どうでもよくて。
おれがどう満足感を得ようとどうでもよくて。
「じゃあ、ココまでしゃあしゃあと連ねてきたことは、何?」
と、おもわなくもないが。



具体的な数字がない以上。
あったとしても、クライアントが感覚以上のものを認識してない以上。

広告の効果のホドは、わからない。

かたや。おもった

「広告を作成する下請け」というどうでもいいような
立場のおれを喜ばせる、クライアントのこころくばり。

っていうのは。
しかもすごくマメにそれを表明できる。
っていうのは、

どういうことなんだろう? と。



少なくとも、ベクトルを「おれ」に向ける必要性が、ない。
というか、必要性がないのに、いちいち向ける、気持ちのありよう。

ってどういうことなんだろう? と。