キクチヒロシ ブログ

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n択

こんな記事があった。

新生児取り違え:60歳男性「生まれた日に時間を戻して」
(毎日新聞 2013/11/27 22:57)




リンク切れにそなえて、いちおう記事全文。やっちゃいけないんだろうケドね。
 新生児取り違え:60歳男性「生まれた日に時間を戻して」

「違う人生があったとも思う。生まれた日に時間を戻してほしい」。東京都墨田区の病院で60年前、出生直後に別の新生児と取り違えられ、東京地裁で病院側の賠償責任を認める判決を勝ち取った都内の男性(60)が27日、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、揺れる思いを吐露した。

 男性は1953年3月に出生。13分後に生まれた別の新生児と、産湯につかった後に取り違えられ、実母とは違う女性の元に渡された。育った家庭では、2歳の時に戸籍上の父親が死去。育ての母親は生活保護を受けながら、男性を含む3人の子を育てた。6畳アパートで家電製品一つない生活だったが「母親は特に(末っ子の)私をかわいがった」と振り返る。「この世に生を受けたのは実の親のおかげ。育ての親も精いっぱいかわいがってくれた」。既に他界した4人の親への感謝を口にした。

 男性は、中学卒業と同時に町工場に就職。自費で定時制の工業高校に通った。今はトラック運転手として働く。

 取り違えられたもう一方の新生児は、4人兄弟の「長男」として育ち、不動産会社を経営。実の弟3人は大学卒業後、上場企業に就職した。

 兄弟で「長男」だけ容姿が異なることから、3人の弟が2009年、検査会社にDNA型鑑定を依頼。血縁関係がないことが確認された。その直後から実兄捜しが始まり、病院の記録を基に11年、男性を捜し当てた。

 「そんなことあるわけがない」。男性は取り違えの可能性を告げられた時、最初は信じられなかった。だが、育ての母親が兄たちと足の指の形が違うことに触れ「誰に似たんだろうね」と笑ったのを思い出した。

 今は実の弟と月に1度飲みに行き、育った家庭の兄の介護をする日々だ。だが、実の両親との再会はかなわなかった。「何もお返しできなかった。生きて会いたかった。写真を見ると涙が出る」



当人たちをふくめ、兄弟はさぞかし思い悩んだことだろう。

ことに、のちの2人がまったく異なる人生をあゆんでることもあり、
あえてゲスい言いかたをすれば、そのコントラストが面白い。

もっというと、取り違えやその後の人生、環境以外にも
「まじでDNA鑑定までやったの!?」
「それで“実兄”捜し出しちゃったの!?」
「いまは、ハッピーエンドちゃあハッピーエンドでよかった」
と、ネタ満載だからこそ記事になったんだろう。

逆に。
「取り違え」だけだったらたぶん
「あるよね、そゆこと」ぐらいなもんで、
記事にはならなかったかもしれない。



ただ。
分岐点って、誰にでもやってくる。
おれみたいに人生に何の波風もない
べた凪にんげんにだって、やってくる。

その分岐は、
人生の道筋を左右することもあれば、「ビーフorチキン?」程度のこともある。
それらが大小詰め合わせて、ひっきりなしにやってくる。

二者択一だけではない。
3つだったり4つだったり10だったり、ぐらいの分岐から
1つを選ぶことだって、ある。



さらに、
強固な意思でじぶんの未来の重大な決定をする分岐もあれば、
じぶんのことなのに、じぶんの力のおよばない範ちゅうで勝手に分岐して、
勝手にどれかをあゆまされてることもあったりする。

むしろ後者、不随意であることのほうが多くて、
そういうケースにかぎって、重大事だったりするもんだったりする。



何が言いたいかというと、
じぶんでどうにもならないもんにあらがおうとしたり、
「アッチ選んどきゃよかった」って後悔したりしても、しようがない。

イマ、アル、ことを受け入れていくしかないじゃん。
ということ。



むむ、なんか語り口がお坊さんみたいだぞ。
そんなつもりはさらさら、ねえんだが。



いや、なんつうか、運。
身もフタもなくなっちゃうケド、実際そうじゃね。

「じぶんの力がおよぶ範囲では全力でn択してる前提」で。

人生の大勝負とおもってることがそうでもなかったり、
行きがけの駄賃程度に気軽にやったのが、大事(おーごと)に発展したり、
結果論でしか語れないことも、ある。



たとえば就職活動してて、
都銀と外資コンサルと大手商社と在京の放送局に内定したとして、
悩みに悩み抜いて銀行を選んだとして。
たとえ放送局を選んだとしても、
そう大した変わりはなかったり。

そんななか、気の迷いで小さい編プロを選んだら、
とてつもない巨万の富を掘り当てたり。
(あくまでたとえ話っすよ)

あるいは、
ふらっと立ち寄った松屋で、
隣で牛丼を食ってた女性が、
運命の赤い糸のあっち側を握ってる人だったり。

ラッキーにも
幸せの国、最後の楽園行きに選ばれて
みんなにうらやましがられつつ渡ったら、
とんでもねえ親子がそこを牛耳ってて、
木の根とか土くれを食わないと生きてけないとかだったり。
(あくまでたとえ話っすよ。
ていうかこれ、運でも分岐でもなんでもねえな)



冒頭の記事の、「取り違えられた2人」だって、
もし取り違えられなかったとしても、
おんなじような人生をあゆんでたかもしれないじゃん。
ひょっとしたら。

とか。

中身のないことを、クドクドと。
おれ、ヒマなんだろうな。


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