きのう、ムスメの小学校の個人面談に行ってきた。
この担任の先生と話すのは、はじめて。
異常に楽しみにしていた。
行ってよかったという話と、ついでに
おれさまちゃんのフラッシュバック語りをしちゃう。
「ついでに」のほうは
読む価値はありませーん、とあらかじめ。
*
行ってよかった
は2つある。
1つは、ムスメを預けてる人とじかに話せること。
1つは、自分が子どものころ感じた異次元の世界を体験できること。
*
ムスメは小2になる。
春の家庭訪問のとき、それに向けて帰宅したら
先生が帰っちゃった10分後だった。
家庭訪問は、自分にとってけっこう重要な行事。
去年も、それなりに想いをもっていた。
⇒家庭訪問(2001/04/20)
個人面談は、そんな春のバンカイ。
気合いを入れて臨んだ。
*
1つめ。
ムスメを預けてる人がどんな人か。
とりあえずそこに、すごい興味がある。
年度はじめのクラスの委員決めには出た。
そこであるていど、
熱心な人なんだなとかはわかったし
日ごろムスメから話を聞いて、
やさしい先生であることもわかってた。
でも、違うんである。
自分のムスメを預けている人がどんな人か
ムスメの話というフィルターをとおしてではなく
フェイス・トゥ・フェイスで話して、
感じたかったんである。
*
というあまのじゃくり方。
*
1年生のときの担任もすばらしかったが
いまの担任の先生もすばらしい。
いまの担任の先生は、
基本的に子どもをほめたり、
いいところを見守るタイプのようだ。
しょせん、おれの子ども。
運動も勉強もできて、性格もいい、
パーフェクト超人であるわけはないので
ひとしきりプラス方向の話を聞いたあと
マイナス方向の話がないか、訊ねた。
が、出てこなかった。
若い先生だし、
ひょっとしたら遠慮してるのかなと
一瞬おもったが、よくよく話を聞くと
そうではない。
ムスメの性格や特性を理解して
ムスメなりの成長の速度に
教育の目線を合わせていてくれている
ということが、よおくわかった。
*
たとえば。
ムスメは、積極的に発言するガラではない。
授業中、手を挙げる子はかぎられてる。
でも、教室を歩きまわり、
ムスメのノートをのぞくと、
自分の考えがちゃんと書いてある。
という。
「だからたまに、ナナコちゃんを名指しで
意見を発表してもらうことがあるんですよ~」
という。
あくまで。
「できてるんだから、自信をもって
手を挙げて発表しなさい」と、強制しない。
*
個人面談に臨む前、
先生に言おうとおもってたことの1つは
「ムスメは引っ込み思案だけど
自信をもったら突き進む性質だから
うまくそういうふうに仕向けていけると
案外おもしろいかもしんないですね」
だった。
言う必要ねえ。わかってくだすってる。
*
もう1つ。
自分の子どものころ感じた
異次元の世界を体験できること。
おれが小学生のころ。
学校の先生と親の面談は、
子どものおれにとってはブラックボックス。
親が面談を終えてから、
いくらおれが様子を聞いたとて。
ちょっとした言葉のニュアンスとか
場の雰囲気は、ダイジェスト版ではわからない。
あまつさえ。
親が実は先生とすげえ深い話をしてるのに
おれにはオブラートに包んで報告する。
みたいなことがあるんじゃないか。
みたいな勘ぐりをしていた。
小学生のおれにはアンタッチャブルな
オトナの話がそこでなされていたんじゃねえか。
それってなにそれってなに?
という好奇心。
親になれば、それを、
親側からみられるぜ、という好奇心。
オチなどない、たんじゅんな好奇心。
*
オチはないし、
子どものときに想像していた
めくるめく世界なんかあるわけないんだけど
なんかこういう夢が実現したぜ感。
あと、上とかぶるが、
子ども1人育てるのに、
学校の先生とおれとにょうぼうと
ほか学童とか実母とか義母とか、
オトナが共闘してるぜっていう、グルーヴ感。
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少なくとも、会った感想として、
いまの担任の先生も、十分、信頼するに足る。
ということがわかった。
エラソーに。
*
話はまったく変わる。
小学校の先生というか教師ってすげえ、ということ。
冒頭で言った、フラッシュバック。
*
おれの父親は教師をしていた。
中学と高校の教員免許をもってたが
おれが知ってるかぎり高校の講師をしていた。
それ以外にもいろんなことをしてたが、
安定的な生活の糧は、
複数の高校で授業をして得てた。
*
大学3年生のころ父と飲みに行って
おれの将来の話になった。
もちろん、というか、おれには
カッコたる自分の将来像なんてない。
父はおれに「学校の先生はどうだ?」と聞いた。
おれは「絶対にムリだ」と言った。
つづけておれが話した内容に、父はえらく感じ入った。
ということを後年、母から聞いた。
おれは酔っぱらってたし
そんな強い気持ちで話したわけではないけど
内容を聞くだに、酔いにまかせてか、
十分に正直な話をしたんだとおもう。
*
おれ自身、少なくとも
小中学校で出会った先生は、
尊敬すべき人ばかりだった。
ほんとうに恵まれていたとおもう。
まあ、尊敬っていうのはあくまで
「いまおもい返すと」で。
小中学生のころはそこまでじゃなかったんだろう。
が、20歳そこそこの当時でさえ
先生から受けた影響が大きかったからこそ
いまの生き方や考え方がある、
みたいなことは実感してた。
「先生ってデカいな」ぐらいはおもってた。
*
さし飲みの席で父に問われるまでもなく
教師になるとかは別にしても
「自分がああいうふうに
他人に影響を与えることができるか」
ていどのことは考えてた。
難しい。とおもった。
できない、じゃなくて難しいとおもった。
じゃあ、教師になったらどうかと考えた。
たとえば。
おれにある伝えたいメッセージなりがあるとして
それを子どもに伝え
その子がおれのメッセージに影響を受けたとする。
その子がキャッチしたことに対して
はたしておれは責任を持てるのか。そりゃ
「絶対にムリだ」。
*
あれから15年だか20年経ったので
さすがにそういう、青春期特有のまっすぐというか
ものごとの一点だけを見つめて考えすぎる
みたいな視点よか、
いまはちょっとは広くなったとおもう。
でも、基本ラインはおんなじ。
だからこそ、
教師という生業を覚悟をもって選んだ時点で
「おれにゃとうていできないぞ」という意味で
学校の先生って尊敬できる、
という考えが根底にある。
特に近年の教育の現場は、
などという話は、長くなるのでカツアイ。。。