キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

じゃあおめえがやってみろ



きのう、テレビで東京マラソンをみながら、ずっと考えていた。

もの申す人に対していうクサレ文句。
「じゃあおめえがやってみろ」

そんなこといわれたんじゃあ、誰も何もいえないじゃないか。
そのとーり。

でも、かつての世界最強ランナー、瀬古利彦なら
マラソンにかんしては、いってもいい。
いや、日本では瀬古にしかいえないかもしれない。
じゃ、いっちゃうよ。という1冊。


瀬古利彦という人は、たぶんすごい不器用なんだろう。
箱根駅伝の解説なんかを聞いていると、
自分の出身校、早稲田大学に露骨に肩入れする。

その1点で、もう生理的にダメな人も少なくないとおもう。

でも、違うんである。
ただただ、不器用なだけなんである。
悪気はまったくないんである。
いや、どちらかというと、おのれの欲望に正直なだけであり、
根本は善意とかサービス精神の塊なだけなんである。

ということが、著書を読むとうかがいしれる。



現役時代、世界最強と称された伝説的天才マラソンランナー。
指導者の立場になってからは、現役のときほどの成果は残せなかった。

この本は、みずからそこらへんすべてをのみこんだうえで、
なお、自分が学んだことを後進に伝えたいという
きわめて純度の高い使命感を表明し、
日本の男子マラソンがかつてのように隆盛をきわめるには
どうすべきか、本気で提示しているようにおもう。



選手時代をふり返り、
絶頂期だった1980年代前半にレースコンディションや周囲のペースさえうまく合えば、2時間5分台で走れたと今でも信じている。
などという。



ちょっと補足しておくと。

瀬古利彦は、
1983年の東京国際マラソンを2時間8分38秒の
当時の日本記録、世界歴代3位で走ったときは
世界記録が2時間8分18秒と20秒差まで肉薄していた。

ベスト記録である
1986年のシカゴマラソンで出した2時間8分27秒のときでさえ、
当時の世界記録は2時間7分12秒。

そんな時代に5分台。
いくら瀬古がとにかく記録より勝つことにこだわり、
「コバンザメ走法」といわれた
トラックに入るまで1位の選手にピタッとくっつき、
ラストスパートで競り勝つというスタイルだったとはいえ、
正直ちょっと、大言壮語すぎんじゃねとおもう。



かたや、最強のランナーと考える中山竹通については
もし中山君の絶頂期にペースメーカーがいたら、2時間4分台で走っていたのではないかと思う。
といっている。

こういう茶目っ気。
いまとなっては比較しようがないんだから、茶目っ気でしかないわけだし、
ライバルに対してあっさり負けを認めちゃうあたりも、茶目っ気でしかない。
このような比較は不毛な議論だが、1980年代前半の絶頂期の私と、この1987年当時の彼が対決していたら、恐らく私は負けていたのではないかと思う。あの規格外のスピードで押し切られたら、さすがの私も躊躇し、ついていくことができない。ぐんぐん離されてラストスパート勝負にもち込めなかったはずだ。しかし、中山君も全盛期の私が後ろについていたら、あのような飛び出しができるかどうか。こればかりは今となっては誰もわからない。

「いまのダルビッシュと絶頂期のイチローが対戦したら、どっちが勝つ?」
ぐらい、ゾクゾクさせられる妄想の提示。
こういうサービス精神。

不毛な議論、バンザイ。



かたや指導者としての瀬古利彦。
こんなふうにいっている。
現役時代に自分で練習メニューを立てていたから、速く走るための方法は知っている。しかし、それを他人に伝えるのはまた別の能力だ。
自分で言うのもおかしいが、「名選手、名監督にあらず」を私は地でいっていると思う。マラソンを走るのは難しいが、教えるのはもっと難しい。
たぶんに我田引水なんだが、
1年ちょい前に、
「名選手必ずしも名監督にあらず」というほめ言葉(2010/12/18)
というエントリーをした。

おれみたいなドシロートが
こんな辺境ブログで勝手にほざくのは自由だが、
本人が言っちゃうってもう、ギャグ。



さて、おれがいいたいのは、ここから。
いつもながら、前置き、長すぎ。



日本の男子マラソンが世界に置いていかれている理由。
それを彼は「日本人は練習のし過ぎなのか?」という項で問題提起する。

正論すぎる。
私はむしろ練習が足りないから、日本マラソン界が低迷しているのではないかと思う。
 2011年末時点で1万mの日本記録は27分35秒、世界記録は26分17秒である。その差は1分以上。スピードでこれだけの差があるのだ。そして先天的な素質においてもやはりアフリカ選手に分があるのは否定のしようがない事実。スピードで負け、素質で負けているのに、練習量で負けたら一体、何で勝つのかと聞きたい。(太字部は原書ママ)

くれぐれも、たんじゅんに根性論と履き違えてはならない。
自信。
というか、自信を持つに至るなんらかの裏付け。

「じゃあおめえがやってみろ」
などという次元の低い言葉遊びではなく、
なんで「練習が足りない」っていうか、
その意味を考えてみましょうね。

瀬古利彦が伝えたいのは、つきつめるとその1点だけだと
おれはおもうんだが、
それが合ってんのか間違ってんのかは、わからん。