キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

しかし、考える場合はどうだ。


10日ぐらい前、ラジオで爆笑問題の太田光が紹介してた本をようやく読み始める。

というあたりの言及は
太田光の天才ぶりが発揮されとる(2010/10/22)で。



きょうは序章から1章。
1章は星新一の両親が結婚する前から、小学校時代まで。

ちなみに星新一は本名を「親一」という。
読みは同じ。
父親が経営していた会社のモットー「親切第一」からとったものだという。

昭和元年生まれだから「昭一」
健康がいちばんだから「健一」
とか。
こーゆーノリってなんだか好ましい。



さて、
表題は「親一」と父、星一(ほし・はじめ)との会話から。
前後を引用する。

あるとき星一は親一に語りかけた。
「いいか、空の星はどんな遠くにあっても、そっちに目をむければ、すぐに実物を見ることができる」

親一はすかさず反論した。
「それはちがうよ。光の速さは一秒に三十万キロだ。だから、いま見ている星も、距離によっては十年前の姿、百年前の姿である場合もあるんだ」

子供向けの科学雑誌を講読していたので、宇宙についてある程度の基礎知識はあったのだ。父親の誤解をなんとかときたいと、親一は理路整然と説明した。すると星一はようやく納得した様子で、しかし、こんな言葉を返した。

「なるほど、見る場合はそうかもしれないな。しかし、考える場合はどうだ。いま地球のことを考えている。つぎに遠い星のことを考える。これにはなんらの時間を要しない。人間の思考は光より速いということになるぞ」

根底から発送を転換することによって固定観念を覆し、新たな地平に目を向ける。目を白黒させた親一は、このときの父親の言葉を生涯忘れることはなかった。(表記はママ)



実は最近、これとなんとなく同じようなことをオレも考えていた。

オレの娘は来年から小学校という齢。
むろん言葉なんてもう自由に操るし、
「それ、どこで覚えたんだ!」とおもわせられる
こまっしゃくれたこと、小生意気なこともいう。



娘と会話するとき、いままでは娘の目線に合わせるようにしていた。
かんたんにいうと、ボキャブラリーを娘の知っている範囲におさえてたりしていた。

ただ最近、それは娘にとってそんなによくないことだなあとおもい始めた。
進歩がない、というか、上の表記を借りると地平が広がらないんである。

だから、娘と話すとき、目線を自分に据えるようにしている。

なんというか、これ、うまく説明できないんだけど。
たとえば、オレが「それ、ダチョウの上島かよ!」
というツッコミをしたいシーンに出くわしたとする。
(そもそもこの舞台設定は何なんだ! は、さておき。。。)

娘の目線だったら、「ダチョウの上島ったってわかんねえだろなあ」と、違う言い方を考える。
すると娘は「ダチョウの上島」に出合うチャンスをみすみす逃がしたことになる。

オレ目線だと、たぶん娘が「ダチョウの上島ってなあに?」と聞いてくるだろう。
少なくとも、ここで娘は「ダチョウの上島」との出合いを果たす。
これって、娘にとっては新たな地平を開拓したということになるんではないか。



みたいなこと。
その積み重ね。



子どもというのは、オトナが子どもをコドモ扱いしているほど
子どもではなかったりする。

わりと周りに気を遣ったり、小難しいことを考えてる。
あえて子ども然とした振る舞いをオトナの前で演じることもある。
自分のガキのころをおもい返せば、そうであったように記憶してる。

娘がこれから齢を重ねると、
親としてそこらへんの距離のとり方がますますわからなくなるんだろう。
10年後ぐらいに「クサイおやじ」だの「あの人」だの言われたくないので、
星一みたいな接し方をしてみようと、あらためて肝に銘じたしだい。