前エントリー(その1)のつづき。
じぶんの想いとか、そんなもんつらつら
連ねてもなんの役にも立たないので
きょくりょく、事実をたんたんと並びたてる。
たてたい。(←何らかのフラグぇ?)
*
念のため言っとくがあくまで
経験や感覚からみちびきだした
ドシロートの勝手な見解である。
ただ、現に「数週間でなおった」
という意味では、まったくの的外れ
ではない(と、おもう)。
*
<直接的に効果があったこと>
○走る機会を増やした
○スクワット
これら・イズ・ほとんどオール
といっても過言ではない。
*
「腸脛靭帯炎の原因は脚筋力不足」
というのが、大前提にあって。
客観的に脚力が多かろうと少なかろうと
それに見合わない負荷をかければ
悲鳴をあげるのは、アタリマエ。
なので、負荷に見合う脚筋力をつければ
腸脛靭帯炎にならない。
フトモモ→スクワットって単純な図式。
また「ふだんは何ともなくて
走り出してしばらくすると痛くなる」って
特徴もあるので、とにかく痛くなるまで走る。
*
スクワットはいままでも35回×3セットを
週に3回ぐらいやってた。
「筋トレってよりは、下半身の安定感を地味に保つ」
というニュアンスである。
「どうせ走れないんだから」ってんで
5回増やして40回×3セットにして。
↓
それを朝晩にして。
↓
持続力をつけるため、55回×2セットにして。
↓
いまは50回×3セット(朝のみ)にした。
「ふだんけっこう怠けてた」
ってのがいい方向に作用して、
以前より明らかに裏モモに筋肉がつき
2段階ぐらいヒップアップした。
いい副作用。
ちなみに、ちょっとハナシは外れるが。
そして、おれのやり方が間違ってるかもしれんが。
スクワットはケツとハムはロンのモチ
股関節をちゃんと効かせることによって
その柔軟性と粘りをつくれる
というとこにこそ、有用なのかもっておもった。
*
。。。
*
<葛藤と皮肉>
○「走ると必ずすぐに痛くなる」との葛藤
○一番走るべきときに走れない葛藤
○距離閾値が上がってたことによる皮肉
さいしょの3日ぐらいはキロ7分で3kいくと
もう痛くて走りたくなくなる。走れなくなる。
けっきょくは、それを地味につづける
っていう原始的なのが一番の近道だが
「たった3kぽっちですげえ痛くなる」
に立ち向かうのは、わりとすぐ心が折れる。
ただ、初めての経験ではなかったぶん
そういうもんだって割りきれたのは
今回のおれにとってはよかった。
ので、「そういうもんだ」っておもえればいい。
んじゃないすかー。
*
「2月は3月のはなもものために走り込み
そのうえに3月は4月のかすみんのために
走り込む」という理論ゼロ根性100な
プランを立ててたため、2月の下旬を棒に振った
という事実にはガッカリもしたし焦りもした。
とはいえ、ガッカリしても焦っても
痛いのがなくなるわけじゃないんだから
目の前の「痛くなるまで3k」をひつこく
くり返すしかねえなって、開き直れもする。
*
1月に400k走ったことにより
ある種の脚力の基礎工事はできたものの
要するにいつもの倍、距離を踏んだことで
距離に対する閾値?があがってしまった。
ところに「2部練して2回痛くなっても
(1日2回も苦しんでも)たったの10k弱」
っていうギャップには苦しんだ。
いや、「苦しんだ」って大したことじゃなく
ちょっと戸惑ったていどだが。
あと、ひたすら「ヒザが痛くなくなる」
ということに専念してるだけで
「脚にも心肺にも負荷をかけられてない」
っていう徒労感には、わりと戸惑う。
*
<副産物>
○ついでに、苦手をひとつ克服しようとした
○より入念にケアするようになった
「どうせ走れないから」ってんで
体幹、おれのバヤイはとくにカラダの側面
の強化をしちまえって貧乏根性を出せたのは
いいことだったとおもう。
あ、コレ、あんま関係ねえな、直接には。
*
ケアをちゃんとするようになった
というのは、よかった。とおもう。
「ケアが大事」ってのはアタリマエで
いままでもジョグ後にしてたつもりだが
「腸脛靭帯炎=脚の外側の筋がつっぱる」
というあきらかな違和感があるおかげで
たとえば「フトモモをもみほぐす」って
ザックリした感じではなく
「ここの部位を」もっというと「この筋を」
といったように、じぶんのカラダについて
より、細かく考えれるようになった。
*
って、漠然としすぎてるな。
具体的にいうと、温める←→冷やす
のバランスみたいなものが大事で。
温める=筋、カラダをゆるめる
冷やす=発熱・鎮痛する
どちらかに偏りすぎてもダメっぽくて。
筋がこわばってるので
温める=ゆるめるに寄りつつも
随所随所で冷やしもするっていう。
これはじぶんの感覚に頼るのが
正しいような気がする。
具体的じゃねえじゃねえか。
*
<メリットと裏腹デメリット>
○どうせゆっくりなので、気楽に走り出せるが
○アタマに「もしも」がこびりつく
○知らず知らず、かばってるんではないか
「どうせゆっくりしか走れねえし」
「どうせ数キロで痛くなるんだし」
ってのは、上記のようにうんざりするいっぽう
「走りにいく」についてはすごく気楽だ。
閾値走すんぞとか、オネカンカマすぞ
30k走でもやんべか、とかにくらべて、
格段に覚悟がいらない。
反面。
治りかけてきたとき、速度をあげるのが
予想してたよかおっくうになった。
おっくうでもあり、おっかなくもあり。
「もしもまた」が、アタマにこびりつく。
けっきょくは「エイヤー」したんだが
大丈夫なはずになってから、
一週間ちゅうちょしちまった。
*
もうひとつ。
「変にかばわない」に気をくばった。
せっかく左ヒザが大丈夫になってきたのに
こんどは右、みたいなことになったら
さすがに心が折れるだろうなとおもったから。
でも、知らず知らずのうちにかばってる。
みたいなことにはいまでもおびえてて。
「ただの右ケツの筋肉痛」ってだけなのに
「右」ってだけで「ああ、やっぱり」
とか、過剰反応しがち(←きのうのおれソクフォー)
*
なんか大事なことを漏らしてる気が
しないでもないが、だいたいそんな感じ。
今回、数週間でなんともなくなった
ってのは、ただのラッキーだっただけで。
「こうすりゃ数週間で治って当然だべ」
では、断じてない。
耳タコなホドくりかえしたことだが
「腸脛靭帯炎は脚筋力不足」
なので、大事をとって休む(走らない)
というのは、まったくもって無意味。
であるいっぽう。
焦ってすぐに治そうとするのもよくない。
そもそも、あれじゃん。
「オーバーユース」が原因なんだから
それを治そうとオーバーユースしてどうすんのよ
みたいな。
今回も
「はなももやかすみんに間に合わなけりゃそれでしようがねえや」
「別に命をとられるわけでもねえし」
ってもっと目の前にあること
(かったるいケド回数走るとか)
だけに集中しようって開きなおってから
メンタルだけじゃなくフィジカルも
いい方向に向かった気がしてる。
*
ったく、エラッソーに、な。。。
走る筋力や心肺のスタミナがガタ落ち
することは覚悟しなきゃなんないが
それはもうなっちゃったことだから
どうにもなるもんでもないし
そのなかでベストを尽くすには
どうしたらいいかってことを
考えれたほうが、建設的でよい。
(↑てめえに言い聞かしてるなり。。。)