キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

「練習を試合のように、試合を練習のように」

カムチャツカ半島で起きた地震。

朝から日本列島の右っ側にも津波が来るって警報が出てて。

 

どこでだか忘れたケド。

「高台にクルマを避難させようとしたひとが

運転をミスったんだか、

崖から落ちて亡くなった」

というニュースにすげえショックを受けておる。

 

もし、地震が起きなければ。

もし、じぶんだけ高いところへ逃げてれば。

もし、クルマのことが頭をよぎらなければ。

 

そのひとにとって変哲もない1日だった

かもしれないわけで。

 

どんなに盤石な平和のなかで過ごしてても。

そんなもん。

針の穴を通すようなこと(日本語?)

ひとつで状況は一変する。

そういうものなんだよな。

って、思い知った。

あらためて。

 

じゃあ、ささやかな平和とは幸福とはいったいなんなんだろう?

みたいなことは、考え出すと話がややこしくなるので措いとこう。

 

 

「練習を試合のような気持ちで行い、試合を練習のような気持ちで行う」

って、誰が言ってたんだっけか?

 

それって至言だとおもってて。

要するに、「平常心の保ち方」ってえと説教くさくなっちゃうんだけど。

あ、換骨奪胎みたくなっちゃうんだけど言い換えると。

「無事なときほどネガティブに、有事なときほどポジティブに」

みたいなことを、準・座右の銘みたく考えておる。

 

準???

 

 

むかし、夜明け前の朝方。

父親を看取って家族全員を乗せて病院から自宅に戻るとき。

「いまおれ絶対平常心じゃないから、必要以上に慎重になっとけ」ってんで。

環七を時速30kmを超えないようにゆっくりゆっくり運転してたことを思い出したんだけど。

だいたいそんなんようなこと。

 

上記の崖から落っこっちゃったひとは。

「はやく避難しなくちゃ!」だか。

「地震が起きて大変だ!」だか。

ほかに何か守るべきものが先にあって、だかわかんないが。

なにかに急(せ)いて、いつもとは違う精神状態になっちゃってたんだろう。

 

いや、ディスりたいんでは当然なく。

仕方がないんだけど、どうにか最悪のことだけは回避する「間」みたいなものがこしらえられなかったもんだろうかって、切なくてやるせなくてしようがない。

 

言い方、むつかしいな!

 

 

いっぽう。

東日本大震災が起きたとき、半蔵門のビルで取材をしておったんだが。

揺れてるとき、テーブルの上のお茶がこぼれないかがすごく気になっちゃって。

窓の向こうでほかのビルがサザエさんのエンディング曲の最後、磯野一家が飛び込んだ家ばりに左右にすげえ揺れてるのを見ながら、テーブルの上の紙コップを押さえてたまま立ち尽くしておった。

 

ふつうに考えりゃ、テーブルの下に潜るなり逃げるなりすりゃいいのに。

緊急事態に、物事の優先順位が見事にバグっちゃってた。

つまり、平常心ではいられないってこういうことなんだなって3分後ぐらいにおもったことを思い出した。

 

いざとなると、しょせんおれってそういうもんなんだな、と。

 

 

進次郎構文みたくなっちゃうんだケド。

だからこそ。

「練習を試合のように、試合を練習のように」常日頃から念頭に置いておく大切さを再実感したわけで。

 

 

カムチャッカの若者がきりんの夢を見ているとき

ローマの少年は柱頭を染める朝陽にウインクする

この地球でいつもどこかで朝がはじまっている

 

経度から経度へと

 

一八九五年六月のある晴れた日に

二十一才の学生グリエルモ・マルコニが

父親の別荘の庭ではじめて送信した

無線のモールス信号がたった今 届いた

 

ここへ来るまでにどれだけ多くの

死んだ世界をくぐりぬけてきたことだろう

 

。。。

 

あれあれ?

谷川俊太郎がとちゅうから寺山修司になっちゃったでござる!