こないだ、ボスとサシで飲んでたときにボスが唱えた説。
「本なり音楽なりアートなり発言なり」
「たとえばすごく感銘を受けたものごとがあるとするじゃない?」
「そんなものに出合ったら、ついつい他人に話したくなる」
「でもそれをそのひとに『ぜひ読んで(聴いて/観て/やって)みてよ』までやるのはトゥーマッチだとおもうんだ」
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かれこれ四半世紀近く、超絶流行語をもちいるならば「そうとう密に」接してきた身からすると感じるのは。
これは、ボスのポリシーってほど重いものじゃなく。
ボスにとって、最近そういうトレンドだっていうくらいのノリ。
ただ。
言わんとしてることはよおくわかりるし。
首肯するところも多い。
この四半世紀足らず、数えきれないほどのものごと・考え方をボスからすすめられてきたってことは措いてもwww
*
つまり、まわりくどく要約すると。
(「つまり」でも「要約」でもねえじゃねえか説!)
(あ、めんどくさいからわかりやすく「本」ってことにすると)
じぶんが感銘を受けた本があった。
→それ自体はすばらしいことである。
ついついそれを、他人に話したくなる。
→それもいい。というか、しようがない。
ただ、軽い気持ちにせよ「読んでみてよ」言っちゃうと。
それは強制・押しつけになっちゃう。
大げさに言えば。
その相手は「いつかあなたの感想も聞かせてよ」って言われる未来の恐怖と戦うべく。
読みたくもねえ本を読み、伝えるべき感想を考えなければならない。
というキャッチボールのボールを、はからずも放っちゃった。
ってことになっちまうゆえ。
あるいは。
なまじっか「読んでみてよ」まで言われたばっかりに。
もともとその本に対してフラットな気持ちだったかもしれないのに。
「ああ、やめとこう」ってなることもあるかもしれない。
というロジック。
すすめたほうからしても。
当人はよかれとおもってしたことが。
それが相手に負担をかけてる(と知った)ならば。
ああ、申し訳ないことしちったなあってばかりが募る。
よかれとおもって、せっかくしたことなのに。
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これ以上これを掘ると長くくどくなるので、テキトーに放り投げるとしてっ。
それぞれの考えにゆだねるとしてっ。
身もフタもないことをほざくと。
けっきょくそれってそのひととの関係性に拠るものだから。
その間合いなりなんなりをちゃんと把握しとかないとね。
でしか、ない。
コミュ障キクチがいちばん不得手とするところじゃねーか!!!!
*
たとえば、それとはまったく関係ねえことだけど。
ボスと最近、こんなやりとりがあった。
義弟が監督を務めるチームが、25年ぶりに都大会で優勝という快挙を成し遂げた。
翌日、キクチはそれをボスに報告した。
でも、ボスは大して関心を示さなかった。
「そういえばね、親戚の子が高校野球の北信越大会で準優勝したんだよ!」
「夏、甲子園いけるんじゃないかって!」
高校野球ずきなキクチは食いつく。
が、キクチの報告はなかったことみたくなってた。
そのサシで飲んだ数日前。
反応は期待せずに後日談をぶっこんでみた。
あくまで近況報告ってていで。
「義弟のチームはけっきょく関東大会、準優勝で。。。」
しかしして、やはりボスの反応はうすく。
「そういえば、長野商は勝ち進んでるね!」と。
。。。
あ、これは別に断じてボスをdisりたいんじゃない。
「野球」という濃厚な共通言語があるボスキクチ間において。
高校野球のフレッシュなネタを提供してくれたボスに対して。
ただ単に身内の快挙ってことに舞い上がって。
アメフトにビタ一文興味ないボスに、あまつさえ二度もいらねえ情報を垂れ流したキクチ、という差。
キクチの間合いの読み違えに尽きるっていう、あくまでたとえなわけで。
ともあれこの夏、界隈では長野商業がゲキアツ!