4/19に中学時代の恩師が亡くなったというニュースが入って以来。
続報がない。。。
そもそも、後輩さんから連絡が来たという極悪おまわり(同級生)からの又聞きで。
言っちゃえば、本当かどうかもはっきりはしてないんだケド。
なんつうか。
いまって、冠婚葬祭のとりわけ葬は身内で済ませます(ました)って時代ではあるものの。
職業柄、偲びたいってひとも相当数いるとおもうし。
現役を退かれてからそんなに日は経ってないからよけい、まだ半現役感っていうかつながってるひとも相当数いるんだろうし。
ご家族からしたら、「拝ましてくれ」だのっていう問い合わせにいちいち対応するより、通夜葬儀をやってシャンシャンってしちゃったほうがてっとり早いんだろうケド。
よしんばそういうのはやんない方針らしいってんなら、それもそれでけっこう重要な情報なのでそんくらい伝わってきてもいいんじゃないかなあって気もするケド。
それはそれとして。
*
そういういろいろをひっくるめて。
「まあそんなもんかなあ」ってのが率直なところ。
あ、ちがうのちがうの。
なげやり的な意味合いじゃなく。
諦念的な意味合いでもなく。
「知らせろよ」でも当然なく。
いや、ニュアンスは諦念っぽいがちょっと違うのね。
流れに身をゆだねるっていうか。
そうならそうでしようがねえでしょっていうか。
そこに目くじらを立てるもんでもねえでしょっていうか。
キクチがどうしても偲びたいってんなら、一人で勝手に偲びゃいいわけで。
。。。うーむ、わかりづれえな!
おもくそ説明的にほざくとするならば。
お知らせに対するアクションってしょせんすべてジコマンの範ちゅうを出るもんじゃないわけじゃないすか。
でも、そこには別にジコマンなんか必要なくね?っていうか。
仮にジコマンを求めるのであれば、ジコマンの閾値をどこに据えるかって話なだけで。
その着地点が「まあそんなもんかなあ」なんだろうな。
(そもそも又聞きにすぎねえんだし。)
ってなったということである。
そういう意味では。
「折に触れて勝手に思い出す」ってのもけっこうな偲び・供養であるはずで。
おれはそれを今後ちゃんとやってゆきたいなっておもった。
おもいましたとさ。
感謝の量っつうかなんつうか。