って、すげえむつかしいところがあって。
命を賭けて打ち込んできた、勝利を目指してきて。
それを果たしたら、そりゃイェーイってなるのは当然だし。
絶体絶命なピンチを切り抜けたときもそうなるだろうし。
てめえ、あるいはチーム競技なら自軍を鼓舞するために必要な局面があるのもわかる。
でもやっぱり、ちょっと違和感があって。
パリオリンピックの柔道を観てて、よけいそうおもった。
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個人的な感想でしょ?っていわれたらそのとおりなんだけど。
キクチみたいなごぼう野郎は、柔道経験は1秒たりともないんだけど。
柔道の「礼にはじまり、礼に終わる」みたいなことがすごく好きで。
五輪の決勝で一本勝ちをしたとしても、最強の柔道家・山下泰裕は礼が終わるまでガッツポーズはしなかったはずで。
それは、わかりやすく相手をリスペクトしているってことなんだとおもう。
(いやいやいや)
(偉大な柔道家とかアスリートでも、礼が終わる前・技が決まったしゅんかんにガッツポーズしたひとたちはいたような気もするんだけど)
(それはバッファーっていうかw)
(ついつい漏れ出た的なことで)
(矛盾するかもだけど、それはそれで最もすばらしく昇華した瞬間だとおもってるので)
(それをくさすつもりはない)
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()をつけてエクスキューズしてるつもりが。
シリメツになっとるな。。。
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いや、根底にあるのは「礼」。
相手にリスペクトがあるかどうかって話で。
たとえばキクチは相変わらず高校野球が大すきなんだけど。
甲子園出場を決めたときなり、甲子園で優勝を決めたときにする
「みんながマウンドに集まってイチバーンって人差し指を突き上げる」
ってのが、何度見てもどうしても受容できないのね。
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「マウンドに集まって抱き合って喜ぶ」まではわかりるのよ。
だって、優勝したんだもん。
うれしいもん。
その歓喜は、じぶんらだけに向けてる。
でも。
そこで人差し指を突き上げてイチバーンはどうだろうか?
じぶんらだけに向けるにしては、トゥーマッチ感がありはしないだろうか?
どうしても、ドヤ感とかオラオラ感が付加されてるような気がしてしまう。
本人たちはそんなつもりはないとしても。
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五輪1日目のきょう。
日本の武道である柔道と、グローバルなスポーツ競技であるJUDOの違いを痛感させられるシーンをいやというほど見せつけられた。
で、柔道ではなく「JUDO」となってしまった(?)オリンピック競技に覚えた違和感は。
畳の色とか道着の色とか、細かいルール変更ではなく。
やっぱりその、「礼に始まり礼に終わる」みたいなことを失ってしまったことにあるような気がして。
たぶん、それはてめえが日本人で日本発祥のものだから、っていう田舎の地主根性?みたいなことから発してるんじゃなく。
物事の根っこにあるとっても大切な精神性が蹂躙されまくってることにあるんじゃないかなっておもう。
いや、「JUDO」としてグローバルでやりたいんなら、このまま、いままでも蹂躙されまくってきたように蹂躙されつづけてばいいんでしょうが。実際、日本の柔道界ってだいぶむかしからそっち方向に舵を切ってるんだから、もう勝手にしてくだされなんでしょうが。
やっぱ、違和感は拭い去れないわけで。
こういうことを言う自体、老害くさくてしようがないんだろうケド。
それならむしろ、目の黒いうちはじぶんは老害とやらでありつづけたい。
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たとえば。
ラグビーボールを前に投げちゃいけないのは、英国なりの騎士道精神から発してるもので。
卓球で完封しないようにする風習は、中国なりのリスペクトの文化から発してるもので。
野球のメジャーリーグで圧倒的に優位に試合を進めてるときに盗塁とかバントをしないのは、アメリカなりの礼儀作法から発してるもので。
なら、少なくとも柔道で礼が終わるまで感情を抑え込んで淡々とするのは、ぼくらがずっと大切にしてきた、誇るべき精神なんだよな。
「道」っていうのはそういうことじゃん?
道っていいよね。
古いとか新しいとかじゃなく。