ことをとりとめもなく、よく考えたりする。
あ、何年か前にそういうおなまえのドラマがあったよね。
言葉自体は哲学っていうかパラドックスの話で。
*
聞きかじった印象のみで曖昧にキクチ脳内で補足しとくとだいたいこんなん意味合い(↓)。
「テセウスの船」っていう木でできた船があって。
木でできてるもんだから、使ってるうちにいろんなとこが朽ちてくる。
オールがぶっ壊れたから、新しいものに取り替えようとか。
縁がすり減ってきたから補強しようとか。
船底に穴があいたからつぎはぎしようとか。
あるいは、ベテランの船長さんが引退して次の船長さんに交代したとか。
漕ぎ手がいきなりやめてしまって、帆を張る係だったひとが漕ぎ手になったとか。
長年そうこうしてるうちに、やがて最初にあったものはすべて違うものに入れ替わってて。
「テセウスの船」っていう看板はおんなじだけど。
はたしてそれはテセウスの船と言えるのだろうか?
という(←合ってる???)。
*
組織も長年つづくとそんなもんだろうし。
たとえば、老舗のうなぎ屋さんが「ウチのタレは100年継ぎ足し継ぎ足しで伝統の味を継承してます」たって、厳密に言えば?
100年前のタレと同じものであるはずはないので、「おお、これが伝統の味だ」ってのは、意味がわかるようなわからないような気がする。
*
卑近な例でいうと。
四半世紀前に超絶豪邸を買って狛江に引っ越してきたとき。
父と母と妹とヨシダ(イッヌ)とヒロシで「キクチ家」だったのに。
ヒロシが結婚していっとき家を出て。
3年後?4年後?に戻ってきて。
父がいなくなり、ヨシダがいなくなり、妹が一人暮らしを始め。
現在、母、にょうぼう、ななちゃん、ヒロシ、と。
メンバーがガラッと変わったのに、表札はずっと「キクチ家」。
って、当たり前っちゃ当たり前だけど、考えてみるとちょっと変っていうかフシギじゃん?
なんつうか、クールファイブ感? ダークダックス感?ある。
(↑わかりづれえな)
*
クッソいらねえ情報的には。
ホントにクッソいらねえ、さらにわかりづれえ情報なんだけど。
晩年、父は自宅で療養してて、いよいよシロートの手には負えないってなって。
あわてて受け入れてくれる病院を探して、入院するってなった日の朝。
「たぶんもう、父は二度とこの家に戻ってくることはないんだろうなあ。」
「いまの家は、じゃすとなうが最後の形なんだなあ」って感傷にひたって。
父がまだ家のなかにいるときに一瞬外に出て、家の写真を撮ったってことがあった。
その写真は、誰が映ってるでもない変哲もない家の写真なんだが。
いま、おんなじアングルで撮ってもほぼおんなじ風景なんだろうが。
すんげえなんとなく、全然違うもの感がするし。
その写真は、キクチ的にけっこう大切なものだとおもってるし。
そこに気づいたおのれの感性に自画自賛の嵐を送り込んでおる。
まあいいや。
*
ともあれ。
そういうのって、なんつうの?
不思議な感覚におちいるっていうか。
テセウス的なことを考えれば考えるほど、ゲシュタルト崩壊みたいな気分になるよね。
「エロ本」っていう文字をずっとながめてるうち。
「このただの線の組み合わせを、何で『エロ本』っていうんだろう?」考え出すみたいな。
あまつさえ、ときとしてそのただの線の組み合わせが、たまらなくおのれの胸を躍らせるワードであったりとかな。。。
*
。。。
*
最近、ちょこちょこおうちの周りをジョギングしてて。
かつて、よく走ってたマイコースやら。
むかし住んでた家の近所を一通りめぐってみたらば。
大雑把な道の形?
「ここを入ればあすこに出る」的なことは5年とか10年。
よしんば40年経っても大して変わってはないんだケド。
まわりの風景。
たてものが今風になってたり、空き地だったとこにマンションが建ってたり、草っ原やジャリ道がきれいに舗装されてたり。
ラーメン屋さんやお寿司屋さんが跡形もなくなってたり。
八百屋さんや本屋さんがコンビニになってたり。
カラオケ屋さんが廃墟のまま時代に置き去りにされてたりしてて。
*
これは形のうえではじぶんが知ってる街と同一なはずなのに。
ひょっとしておれはパラレルワールド的なものに入り込んじまったのか?
ほんとうにおんなじ街と言いきれるんだろうか?
みたいなことを随所で考えちまった。
という、クソとりとめのないぽえむである。
*
で、マルチエンディング。
その1。
そうなると当然、幾年月を経る間に風景も、そこに暮らす人もガラッと入れ替わったりしてるんだろうけど、「前」も「後」もやっぱりそこは「狛江」であり「瀬田」であり「溝口」であり「向ヶ丘遊園」なんだよなあ。
という、ワケワカメなメルヘン感。
その2。
これはあくまで、キクチがひっさびさに何年かの時を経て訪れたからこそ一挙に感じられた変化なわけで。
たとえば、ずっとそこにいたり、ごく定期的に訪れていたらば。
ちょっとずつちょっとずつの変化は(おのれの心や身体の成長や老化とおなじく)、たまに思い出したように感じることはあってもいちいち感じ取ることはでけなくって。
そのそういう、変化を劇的に感じられるだけのブランクの恩恵と、いちいちのマイナーチェンジを感じ取れないだけの順応感? 土着感? の恩恵は、なにやらどっちも捨てがたいなあ。
という、ワケワカメなメルヘン感。
どっちみち、ぽえむの域を出てねえ!