11月の2週目にマラソンを走らなきゃなんないってんで。
お盆明けぐらいから。
6k走り切れるようになれたい。
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週に複数回、6k走り切れるようになれたい。
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土日のどっちかは大蔵公園までの起伏ある7kぐらいを走り切れるようになりたい。
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土日のどっちかには駒沢公園までの往復を走り切れたい。
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土日のどっちかには駒沢公園までの往復を余力を残して走り切れたい。
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平日におしごとのあと、おうちまで走って帰れたい。
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平日におしごとのあと、おうちまで余力を残して走り切れたい。
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平日のおしごとのあと、おうちまで坂道だけはちょっとがんばりつつ余力を残して走り切れたい。
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イマココ!
(じぶんなりに身の丈で積み重ねてきたジコマンはある。
温暖化で、体重も予定よかそうとうずんずん減ってるし。
ずんずまん!)
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平日のおしごとのあと2回は、おうちまで坂道だけをちょっとがんばりつつ余力を残して走り切れたい。
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うんぬんかんぬん。
。。。
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っていうプロセスなんかクソどうでもいいから、とにかく11月のマラソンをぶじ完走させろください!
あわよくば、なんぴと足りとも見つからず。
あわよくば、とちゅうであるかなくていいぐあいで。
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そんな地味なジョギングを盆明けからはじめて気づいたのは。
「上記みたいなてめえが絶対に勝つような設定するのって、貴重なプロセスだよね!」
ってのと同時に。
「精神的にテンパってるときほど、余裕のないときほど、ムリヤリ走りに出ちゃったほうが結果的にリフレッシュ度がチョー高え!」
おじさんになってからジョギングしはじめて12年半も経って、イマソレ???
いいのいいの。
バカキクチの脳みそがフル回転した結果だから。
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マラソンをがんばろう、速くなりたいってころは。
「走る」と「走る以外」に区分けされてて。
「走る以外」が大変な時期なんかは、それは「走る」の妨害要素としかおもえなかったんだけど。
「どうでもいいから、おめえのテンパりを(全然関係ねえ)『走る』でリフレッシュできることもある」って言われても。
そもそも走ること自体がある種の超絶ストレスだったから、そういう相互作用を感じろって言われてもムリムリムリムリ!だったんだけど。
いざ走り出したら走ることに必死になって、それ以外のよゆうはできないじゃん?だけど。
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いまは、おのれが走ることに対して無欲だからなのかなんなのか、そこのバランスがすげえうまくバランスでけてるような気がする。
なので、あとはてめえの基準をどこに据えるかで。
「めいっぱいがんばってみる」とか
「マラソンを完走でけるじぶんではいたい」とか
「年1回はマラソンを完走でけるありさまでいつづけたい」とか
「マラソンを4時間(とか5時間)を切っているじぶんでありつづけたい」とか
「そんなのどうでもいいから、楽しく走りつづけられるようにありたい」とか。
どれも、決めることより決めたことを持続しようってことのほうが大変だし。
じぶんはどこで決めきれば納得できるのかってことをさんざん考え、それをそのとおり遂行してゆくってのがどんだけとうといのか。
ってのをどうしても考える。
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あ、たぶんきょうキクチが言いたかったのは、表題の「プロセスの貴重さ」みたいなことじゃなく、いかに冷静に現状を客観的に自己認識をできるかってことで。
それこそ、マラソンを走ろうとしたときに大切な。
ずっと探りつづけてきたことであるってのに気づく。
なので。たぶん。
むかしもこれまでもこれからも、ずっとプロセスくせえ。
いいじゃんそれで。