圓楽と猪木が2日連チャンで亡くなったじゃないすか。
(こういうのに「連チャン」って言い方は決定的におかしい!)
キクチは落語ずきでもプロレスずきでもないんだが、御多分に洩れず(これも言い方!)相応にショックだか喪失感だか戸惑いだか欠落感みたいなものを覚えて。
それって何かって考えたら。
「2日連続はキツいでしょ」もさることながら。
彼らはキクチが生まれたころからあまりにも当たり前にスーパースター・人気者として在りつづけてたから。
根拠もなく漠然と「未来永劫、いる」みたく勝手におもってたフシがあって。
「え?猪木(楽太郎)がいなくなるとか、アリなの?」
みたいにパニクっちゃってるんだとおもう。
(この「アリ」は、猪木つながりでモハメド・アリのアリではない)
(↑こういうの、ほんっとクソつまんねーな。。。)
*
あまつさえ、猪木にしろ楽太郎にしろ。
じぶんがガキのころ、全盛期っていうか、エネルギッシュなころを見てるだけに。
最近お2人とも、相当ギリで映しちゃアウト的なころになっても臆することなく面前に出てきてて。
よけいいろいろ考えちゃったんだろうな。
*
あ、きょう書こうとおもってたのはそのことだ!
いま、おもいだした。
*
「死にざまは生きざま」みたいな、手垢にまみれた物言いあるじゃないすか。
生命の最後の一瞬をどう燃焼し尽くすかどうかがモノを言う的な。
あえて二分化すると、その瞬間まで表に出続けるか、美しい記憶として残るようにどこか前でスッパリ身を引くか。
それって正解はなくって。
個々の美学の問題だから、どっちがどうでもないんだけど。
やっぱ、猪木とか楽太郎とかのあのギリギリまでさらしつづける覚悟を選んださまを見せつけられちゃうと。
「おお、かっけえな!」っておもっちゃうのよね。
*
あの、客観的にビジュアル的に、
ぜんぜんカッコよくない(造形として瑞々しかったりハリがあったりはしない)のに。
その「おお、かっけえ!」って、ともすれば憧れちゃうこの感じって何なんだろうな?
*
。。。
*
このネタじゃ、どうしてもとりとめのないぽえむにしかならないので、マルチエンディングオチ。
その1。
キクチの父親が、亡くなったのは3月27日の午前0時09分で。
3月26日がおのれの個展の最終日で、
それをきっちり送り届けて?から逝ったから
「こういう生涯現役ってチョーかっけえな!」
みたいなことが刷り込まれてるってのは、あるとおもいます!
(謎のエロ詩吟なてい)
その2。
それはすなわち、最期まで他者に求めつづけられてたってことだから。
それって最高じゃん?って、よけい憧れちゃうんだとおもう。
あるとおもいます!(エロ詩吟なてい)
その3。
そういう意味では、逆説的に。
「超絶全盛期の姿を真空パックしたまま二度と出てこない山口百恵」
はある意味、最強なのかなっておもう。
広義に「本人が引退を決められる人」って幸せだよね。
その4。
そうそう、また自分語りになっちゃうけど。
亡くなる1年ぐらい前、癌が発覚して父に新宿の喫茶店に呼び出されたとき。
「これからのお父さんの生きざまをよおく見ておいてほしい」
って言われたのは、最期の2週間ぐらいですげえガツンときたっけな。
でも、キクチもあわよくばパクりたいけど、いざとなったらいささかの照れが入りそうで言いきれそうにはない。
*
その5。
ちょっと話がそれちゃうかもしんないけど。
今回、最初にキョライしたこと。
浜松の義理のおばあさ(伯母の嫁ぎ先なので血のつながりはないが、ヒロシをチョーかわいがってくれた)が、晩年。
「いっしょにゲートボールしてたひとも、もう誰もいなくなっちゃった」っつってて。
今回の猪木とか楽太郎(どうしても楽太郎って言っちゃうね、じぶんなりのリスペクトを込めて)の訃報とか。
ここ数年、千代の富士からはじまって平尾とか志村けんとか田中邦衛とか、じぶんが生まれたときからずっといたスーパースターがいなくなってゆくにつけ。
浜松のおばあさが言ってたことのほんとうの意味が、少しずつ少しずつわかりるような気がしてきたんっすよね。
「なんか、じぶんだけがどんどん取り残されてく感」?
これから齢を重ねるにつれ、そういうのが増えてくんだろうし。
長老どもは、あまねくそういう。
「それを齢下に言ってもどうせわかってもらえないから言わない諦念」
とも格闘してたとおもうと、なんかリスペクトがやまない。
*
。。。けっきょくぽえむに終始しちった。
っていうか、取り上げたテーマがデカすぎて手に負えなかったでござる。
とりあえず、命果てる直前まで求められるようなオトナになりたいっす。