バカみてえにじぶんの直感を信じてるところがあって。
なんらかを選ぶとき、最初に「ピンと来る」かどうかが優先順位のそうとう上位にあったりする。
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あ、なるべく抽象的な物言いで言い訳をします。
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たとえば「理屈ではどう考えてもA」なんだけど、どうもピンと来なければついつい「(理屈じゃねえ)ピンと来たB」をえらんじゃう。
往々にしてえらぶ時点ですでに「Bじゃねえだろ」ってうすうすわかってたりして、そんで「結果的にやっぱAだったわ」ってことも少なくないけど、「だってピンと来なかったんですもの」が拠りどころになって、てめえのなかでは納得感はある。
拠りどころってえとちょっと違うな。
でも拠りどころ以上の言葉がめっかんないので措いとく。
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逆に言うと、ピンと来なかったほうをえらんだ場合、どこかまで進んだ時点でけっきょくじぶんのなかで破たんをきたして「ああ、やっぱりね」ってなる(ことが圧倒的に多い、ような気がする)。
たとえば、対人関係。
最初に明らかにピンと来てないんだけど、「おれの奥なり底なりが浅いからで、実は知れば知るほど首肯すべきぶぶんが出てくるんだろう」的なことを予期して、でもそれはえてして知れば知るほどギャップが深まるだけ、的な。
えっと、まあいいや。
こうもんみえてもキクチは小せえ小せえにんげんだから、ピンと来るレンジが極端に狭いのだ。
超絶人見知りのコミュ障だもの。
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んで人間関係にかぎらず、時にそういうのはこざかしい逆張りやあまのじゃくっぽくなったりもするんだけど。
おのれの内の「ピンと来る来ない」に誠実であろうってだけのことで、こざかしさとかかまってちゃんっぽさになってしまうことをたいへん苦々しくおもってる。
(じゃあ苦々しくならないようにすればいいかってえと、「ああ、やっぱりね」っていう振り出しに戻るだけなので、選択肢はあってないようなものなのだ。なのだ)
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あ、ちょっと話がズレるけど。いらねえ情報的に。
前にも折に触れてほざいたことあるよな気がするが、おのれのライフワークとして突き詰めていきたいことのひとつとして、「じぶんは絶対にないなという選択肢をえらぶひともいる現実というメカニズム」ってのがあって(わっかりづれえな)。
それってのは、たんじゅんに視点とか嗜好の多様性に対する興味で。
まさにこのエントリーで言う「最初にピンと来る」的なことになるわけで。
まあ、視点とか嗜好ってのはそもそも、(じぶんも含めて)環境とか時勢とか人間関係とかポジションとかに影響される部分もたしかに大きいんだけど、知りたいのはそれをあたうるかぎり削ぎ落とした個々人の直感的なぶぶん。
そのメカニズムとか源流。
少なくとも支持層の多寡による支持みたいのは度外視したやつ。
裏を返せば、逆張り・あまのじゃく的なのは排除したやつ。
(まったくもって何言ってんのかワケワカメっすね)
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。。。
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話を戻すと。
言い訳に戻ると。
キクチは当初、「ピンと来な」くて。
でも、絶対的に足りない脳みそを駆使してみて、考えうるいろんな角度から「ピンと来ない」に対する反論をてめえにぶっつけてみて、でもなおかつピンと来なかった。
「そういうてめえごときの取るに足らねえ気持ちを押し殺して流れをとめないほうに迎合する」ことの後味のよくなささが、「ピンと来てないのにクソテキトーにノッちゃう」ことの後味のよくなささを、どうっっっっしても凌駕でけなかったので。
スルーさしてもらうことにした。
要するにキクチ、ガキンチョなんである。
「おめえキクチよお、ぜんぜん『人にやさしく』ねえじぇねえかこの言行不一致ヤローが!」おもう。さいなむ。
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コウしちゃった手前、「だからといってソレ自体を否定するわけではありません」とか、しゃあしゃあと綺麗事をほざくつもりはない。
実際、(肯定も否定もしないっていうか、おれごときが肯定も否定もできるエラッソーな分際であろうはずもないんだが)いわばこのスルーという行為自体がなんらかを雄弁に物語っちゃってるわけだし。
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ただ、ひとつだけ言っておきたいのは。
キクチごときに回してくだすったこと自体は、純粋にとてもうれしかったですということ。
なにしろかまってちゃんだからな。
それを受けてのこの行為は間違いだとはぜんぜんおもってないが、もしこの行為が彼になんらかをおもわせることになってしまうとしたら、それは彼には何の落ち度もない、完全にキクチの責任です。
てめえ勝手にほざけば、あわよくばこれを肴にお酒を飲みたい。
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。。。
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これを、ブログとして書くことにも葛藤があった。
まったく「なかったもの」として、しらっとふだんどおりやることも考えたが、なんか違うよね?と。
でもコウしたらしたで、たぶんアップしたあとしばらくなやむんだろな。
「狛江はオフライン日記でも書いとけ」と。
(ちょうど2000字←いらねえ情報)