「ブログを更新する」って行為も不思議なもので。
ある程度「なるべく毎日更新しよう」って気持ちでいて。
きのうもきょうも一通り書いてみるんだけど「これはちょっと{つまんねえ/浅え/ブログにするネタには及ばねえ}な」って出来で。
いつかネタ的に熟成されっかもってんで、下書き保存したり、オフライン日記に置いといたりして。
それが何日かつづくと、ブログを更新する(さらす)ことにどんどんどんどん臆病になっていくのな。←キクチサッコンイマココ
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これって、ジョグとどこかしら似てて。
「何日もつづけて走ったからきょうは休もう」ってなって。
その翌日に走らないで。
それが何日かつづくと「また走り出す」ということに臆病になるじゃないすか。
「ちょっと脚ならしからリスタートしないとな」だとか。
「いきなりポイント練なんてムリムリムリ」だとか。
そういう。
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むりにジョグに紐付けようとしたけど、さして語るべきことはないっていうか。
まいにち下書き保存ばっか増えてくのもアレだから、とりあえず何でも書いてアップしてしまえ!っておもってるだけなのであります。
なので、おもいうかんだことをまんま、小品的につらねてみる。
なので、ネタ間の連関はまったくない。
垂れ流しなので、読む価値もない。以下。
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ヒトサマのブログを拝読してて。
「え?それってキクチ呼ばれてる?」
的な思い過ごしはたぶん、10割10分10厘、ただの思い過ごしだ。
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夏だしってんで、サングラスをせしめてみたんだが。
あんま走ってないうえに、走るとしてもだいたい夜だからそもそもサングラスいらねえ説。(っていうかどんだけ前のツイートだぜ?)
グラサンをせしめたついでに町中華をカマそうとお店に入ったらシャレオツな店でビビっておる。 pic.twitter.com/IsF3f2y3fS
— キクチヒロシ (@rFsPIZFyucNM3Z2) 2020年7月19日
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なんかの本で「自分とは徹底的に議論しろ」って記述があって。
キクチはなんらかの中枢を担えるような器ではない小市民なので、エラいひとが「議論する」「議論しなければならない」みたいにおっさってるのがどうもアレで。
それはなんでかっていうと、議論っていうのは道筋を決めるためのものに過ぎなくて、その決めた道筋をどう実行するかが肝要なのに、えてして「エラいひと」ってのは「議論」ですべて仕事をやり終えた感じになったりするじゃん。
そのクソテキトーな机上の空論を、誰かが忠実に現実的に実行してこそ成り立ってんだよ!
っておもっちゃうブルーカラー気質なので。
「議論する」「議論しなければならない」でいっぱしの仕事(か何か)した気になられてるも困るよっておもうわけで。
だいたい、「議論」っていう名詞を、テキトーに「する」つけて動詞化して、あたかも元からあるものであるかのように飾り立てるその感じがそもそもアレで。
「議論『を』する」だろ! おもうわけで。
そんなんキクチの安い自己主張、どうっでもいいな。
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いっぽう、なんかの本で読んだ「自分とは徹底的に議論しろ」ってのは刺さった。
アタマと胸に。
てめえと議論をするってことは、てめえ内に「よいカツオくん」と「わるいカツオくん」を据えなきゃなんないわけで。
あ、「よい/わるい」じゃねえな。
ある議題?に関する肯定派役と否定派役(とファシリテーター的な役割)を据えなきゃなんないわけで。
それはつまり「おめえはそれでほんとうにいいとおもってんのか?」を混ぜっかえせる作業なわけで。
キクチなんか46年もおめおめ生きてきて、そんだけ無駄におめおめ生きてると「これが正しいんじゃないか?」ってことが経験則的に、直感でなんとなくコッチってなるんだけれども。
えー?それでいいの? おめえが正しいとおもってることばっかで世の中動いちゃいねえし、おめえが正しいとおもってることは実はぜんぜん間違ってるかもとか、おもわねえの?
って、いちいち考えることは、とってもめんどくさい作業だけどやっぱり、すっとばしちゃいけないような気がしてきた。いまだからこそ。
(だからといって確固たる信念があるわけじゃなくって、ただのふんわりふわふわなのよ)
(ってのが問題でもあり、そのままふわふわでいいんじゃねえかってぶぶんでもある)
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またあるところで、なんかを読んでて。
「ペルソナ」って言葉に当たった。
かの心理学者・ユングでいうところの「外的側面」。
そこで語られてた文脈でいうと。
(以下、あくまでキクチの解釈)
社会的にひとはいくつものペルソナ(仮面)をつけて生きてる、と。
もう少しかみくだいて言うと、シーンの違いによってナチュラルにキャラを変えるみたいなことで。
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たとえば。
家庭で、にょうぼうに対する「夫」としてのキクチと、ムスメっこに対する「パパ」としてのキクチと、同居してる実母に対する「息子」としてのキクチがいて。
コレ、Choeiさんのブログタイトルなていだな。
職場では「下っ端」のキクチも、クライアントの前で「ハッタリカマしまくる」キクチも、仕事終わりにボスに誘われて「自由に飲んだくれてる」キクチもいて。
さらに、ブログ×マラソンな方々とウタゲをカマす「かならず記憶ロストする」キクチも、「レース走ってちょっとアツくなっちゃってる」キクチもいて。
「誰も読まねえブログでコウしてクダまいてる」キクチもいて。
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あ、ただ、局面のバリエーションをたとえたかっただけなのに、ムダに長くなっちゃってわかりづらくなっちったなり。
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要するに、「じぶん」はただ一人?一つ?なのに、場に応じてナチュラルにビミョーに仮面をつけ代えて生きてるわけで。
あまつさえ、それはとくだん、ものすごく意識してるわけでもなく。
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で、コロナ禍でテレワーク、オンラインってことになると。
「おうちでパソコンの前にいる」ってのは微動だにしてなくって。
ペルソナを(無意識にしろ)切り替える「シーンの転換」の機会が失われちゃうから、それが有形無形のストレスになっちゃうよね。
「物理的に場を移動する大事さ」をわかりるよね。
って話で。
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逆に、「おれはこんなに仮面を付け替えて生きてたのか!?」って気づくっていうか。
すげえ極端に昭和のステレオタイプ的な感じでいうと、キクチが「会社では傍若無人にいばり散らしてるエラい部長さん」でいて、「家ではすげえかかあ殿下で常にちんこ縮み上がってるマン」だとすっと。
テレワークだと、その仮面を付け替える「場の転換」がないから、うかつににょうぼうに「すげえいばり散らしてる部長」になっちゃったら、コトだよ。
みたいなことで。
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なんつうかですね。
お酒飲みながらテキトーに書いてたから、当初おもいえがいてたリッパなオチは忘れてしまってしまつにおえない。。。
そういうことも込みでナチュラルにこなせるようになってこそ、真のテレワーク成立ってことなんじゃねえの?って、たしかそこでは言ってたが、正論的にまったくそのとおりかもしんないが、そんなんで、ブログ的にはオチませんよな。。。
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「ペルソナを付け替える」って頭ではなんとなく理解できるし、知らず知らずやってるような気もするけど、やっぱよくわかんねえ。。。
ただ、オンラインウタゲがある土曜になると。
「ダンナ、朝から異常に楽しそうだよね」とは毎週毎週言われる。
ううむ。オチねえ。