「天狗になる」ってのは、高慢ちきになること、おもいあがってヒトサマをあなどること、またはその人。なんだそうな。
という、天狗になるメカニズム的な話。(いらねえぽえむ)
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あ、コレの元ネタはネットか何かで読んで。
それを以下、あやふやな記憶でもって起こすのでそこに書いてあったこととは必ずしも合ってはいないかもしれないし、あまつさえ知らず知らず、てめえに都合のいい解釈をオンしてるかもしれないが、つづける。
たぶんに引用っぽいが、引用元を探すのがめんどくさいので割愛す。
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誰かが「天狗になる」ってのは、前提として、その誰かを持ち上げる、あるいはよくない意味で肯定するという関係性があってはじめて成り立つ。
というのがあるらしいんだが、おれにはイマイチそこは咀嚼しきれなかったので措いて。
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じゃあどうして天狗になるひととならないひとがいるのかというと、「自己愛のつおさ」が大きくかかわってる、と。
すなわち、自己愛のつおいひとってのは、じぶんに根拠のない自信があって。
「おれは本当はこんなもんじゃねえ」みたいな。
そんでよしんば、物事がうまくまわって成功すると「ほら見ろ!」ってなる。
逆に自己愛がつおくないひと(天狗にならないひと)ってのは、よしんば物事がうまくまわって成功しても「じぶんなんてまだまだ」って思考になるもんだ、と。
上昇志向とはちょい違う、「謙虚」って意味で。
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で、いざ「天狗になる」と、じぶんは「じぶんが天狗になってる」ことに気づけない。
何でかっていうと、内省する余裕がなくなるから。
時間的にも精神的にも余裕がなくなる。
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そうすっと、よくない循環が生まれてますます天狗になる。
○周りにはイエスマンとか、そのひとを利用してひと儲けしたいひとが固めるから。
↓
○よけい持ち上げられて、ますます増長する。
↓
○そのぶん、ますますじぶんを客観的に見る/内省する機会を失う。
からなんだと。
当初「じぶんは決してそうはならない」とおもってても、いつの間にかそこに陥りこみ、よほどの気づきがないと、そのうち天狗な状態を当たり前とおもうようになってしまう。
=ザ・天狗爆誕、と。
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それが、なんらかのきっかけで「おれ、天狗になってた」って気づければ、「謙虚であるべし」的なことに気づければいいんだが。
えてしてそう気づくのって、すべての梯子が外され終わったときで。
だって、「おれはこんなもんじゃねえ」にはゴールがなくって、どんどん肥大化してくっていうか、上には上がいるみたいな感じになるから、そこから降りないか降ろされないかぎり気づけない。と。
ほほう。
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だいぶ、おのれの勝手な解釈が混じったな。
家探ししてリンク貼らなくて正解だったな。
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。。。
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「謙虚」って、つきつめると「ひとの話をちゃんと聞けるか」だとおもう。
天狗って裸の王様みたいなもんだから、「てめえが絶対的に正しい」とか「てめえが考える正義が絶対的に正義だ」っていう幻想にからめ取られた状態で。
ヒトサマの言うことに耳を傾けるわけない。傾けられなくなる。
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よく「聞き上手こそがモテる」みたいなこと言うじゃないすか。
あれって「ちゃんと聞けるかどうか」をつうじて、おもくそ拡大解釈すると「そのひとの度量のデカさがはかりしれる」ってことで。
そりゃ、デカいひとこそが最終的に当然モテますよな、っつうことで。
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何が言いたいかというと。
ウタゲの席でたまにキクチ、とめどなく前へ出てくじゃないすか。
「キクチオンステージ」とか「おれうまいこと言ったってドヤ顔カマしてる」と言及される状態。
あれって、まあ宴席だし場を盛り上げる的な心持ちならいいんだろうけど、それってどうなんだろうか? 本当に場を盛り上げたい気持ちから発してるのか? 逆に周りに気を遣わせてるだけなんじゃねーか? もしかしておもいあがってんじゃねーか?
内省してみる。
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よしんば、前に出てゆこうとするのはいいこともあるかもしれない、とする。
よしんば、クソキクチが天狗になれるのなんて宴席で酩酊(して覚えてねえ)ときぐらいじゃん、だとする。
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でも、けっこうむかし。
チャンネーパイセンから「『おれがおれが』ってオトコがほとんどななかで、キクチはあえて聞き役に徹せられるところがいい」って言われたことがあって。
それはそのひとらが「引っ込み思案なキクチに気を遣ってあえて立ててくれた」とか「要するにあたしの言いたいことを黙って聞いてくれっから(あたしたちにとってつごうが)いい」「(コイツ無毒無害)Yeah!!!」って安パイ的なことはロンのモチ、重々承知で。
そのうえで、そこをちゃんと認識してもらえたってのはいまでもコウ覚えてるぐらい、うれしいしな、ちょっとは認めてもらえたのかな、おれにもいいとこもあんのかなってすごくおもえたわけで。
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はたしてこれを「内省」っていえるのかどうかはわからないケド。
こんなんふうにいらねえぽえむをほざくことによって、静かにてめえと向き合い、内省じみたことができるのは、ブログのいいぶぶんだなっておもうわけです。
まあ、「ブログでおもいあがる」 的なむつかしいぶぶんもけっこう見てきたり、てめえがそうなってんじゃねえのって疑心暗鬼になったこともあったが、それを話し出すと長くなるので措きまする。