松井秀喜っておないどしで
まぎれもないスーパースターなんだケド。
それは彼の全盛期を肌で感じてきた人間
だけが持ってるアタリマエの解釈で。
そのアタリマエは、
いつまでも通用するわけじゃない。
ひょっとしたら、もう
通用しなくなりはじめてるんじゃないか。
「ソ連」「西ドイツ」に首をかしげ
長嶋茂雄を「このおじいちゃん、誰?」
中2のムスメっこがそう言うくらいだから
あながち、遠い未来のことでもないだろう。
*
っていうか、ですね。
きょう書きたいこと。
表題ですべて完結してる。
ぐうの音も出ない、ド正論。
そのとーり。
*
ってのを、ムリヤリつなげて
妄言をくりひろげてみる。
*
なお、いらねえ情報的に。
おれの座右の銘をカイチンしとくと。
「買わない宝くじは当たらない」
「まじめにふざけて生きる」
。。。マジ、クッソどうでもいいな。
*
「努力できることが才能である。」
松井秀喜ってたぶん、もとから。
野球の「才能」のカタマリなわけじゃん。
体格、パワー、遠くに飛ばす技術などなど。
そういうひとでも、こういうことを言う。
そして実際、死ぬほど努力をした。
とか、もうね。
鬼が金棒を持っちゃってる。
あまつさえ、二刀流で。
おれみたいな小市民は、太刀打ちできねえ。
何の教訓にもなんねえ。
*
だって。
中学に入って部活をのぞいてみて。
「うわーぜってーこいつにかなわねー」
みたいな「才能」にあふれてるやつにかぎって
えてして、すぐやめちゃうもんじゃないすか。
やはり、天は二物を与えないのだ。
ってって、そこに凡人の付け入る隙ができる。
「ぜんぜん才能がなくても、けっきょく
やめないで続けたもん勝ちじゃん」
的に、おもえるのに。
*
まあ。なかには。
才能がすごくって。
スポーツも勉強もすげえできて。
あまつさえイケメンでモテまくりで。
いけすかねえから、アラを見つけようって
「きっと、ものすごいやなやつなはず」
うすぎたない根性満載で近づいてみたら
性格もすっげえいいパーフェクト超人で。
じぶんの小ささをおもいしらされ
こういうひともいるんだねえおもう
ってケースもあるが。
そんなひとはもとから、
じぶんと競うフィールドにいないから
どうぞご自由にってなれるし。
ってのは、措いて。
*
才能ってのは、ひとつじゃなくて。
いろんな要素があって。
環境とか素質とか運とか根性とか。
とかとか。
そのなかの最も重要な要素に
「努力できること」
があるってのは、何かに打ち込もうとすると
わりと早めに悟れる。
*
「努力できることが才能である。」ってのは
とりわけマラソンと親和性が高い言葉で。
ってのは。
競技としてではなく市民として。
2回以上完走したことあるひとなら
誰でも身にしみるんじゃなかろうか。
努力の量が、これでもかってほど
ダイレクトに結果に反映される。
おもしろさ。
適切な努力の量を積み重ねれば、
そのぶん、記録は縮まるし。
どうかなって状態で臨めば
記録もやっぱり、どうかなってなる。
*
「スピード」ったって
100m10秒台を求められてるわけじゃない。
「スタミナ」ったって
せいぜい3~4時間もたせられればいい。
「努力してきたっていう精神的な裏付け」
が、キツいときにてめえの背中を押し、
その具合いかんによっては、
最終的に5分も10分もタイムが違ってくる。
ぐらい、がんばれる。
みたいな。
*
最初はさほどだったひとが
努力できる才能をいかんなく発揮して
信じらんねえぐらい速くなっちゃったよ。
って例も。
「マラソン×ブログ」界隈で
腐るほど、目にしてきた。
みたいな。
*
それこそが、マラソンの醍醐味であり
ハマるひとがハマるゆえんで。
「じゃあ、がんばればいいんじゃね?」
ってったって。
そのひとが「がんばれる」のも
それはそのひとの一つの才能で。
*
信じられないくらい速いひと。
っているじゃないすか。
でも、そのひとだって
努力できる才能を
本人がその才能を才能と感じることもなく
いかんなく発揮しつづけてきた
積み重ねなんだっておもえば。
リスペクト度が、いや増すってもん。
もとから速いひとなんて
少なくとも一般的な市民ジョガーレベルでは
まったく皆無なはずだし。
*
。。。
*
「おめえはホント、
素質だけしかないっすよね!
あとは、なにひとつ、ないっ!」
だいぶ前に、酒場で。
とある正論野郎が、おっさった。
深く深く、胸に突き刺さった。
いい意味だか、あんまよくない意味でwww
それをぶつけられて。
「マラソンやハーフはともかく。。。」
「10k、うーん5k、3k。。。」
「。。。50mならフジヤマに勝てる!」豪語した
で、おなじみのジョギンガーさんと
なぜだか、むしょうに飲みたくなった。