キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

「手触りは残りつづける。何年でも、何十年でも」(後)

ああ、表題のやつ。
文脈がわからないと、
「ただの耳ざわりよさげな言葉」
で終わっちゃうな。



って「こうこうこういう場面で」
を説明しようとしたものの。

コレ『ちはやふる』の映画全般にいえるんだが
話の流れがあんま、つかめてねえ疑惑ぼっぱつ。

マジかよ。。。



いや、大づかみなストーリーは
だいたいわかってる、つもり。

高校3年、最後の団体戦で優勝をめざしてるとか
その過程で太一っていう
主人公・千早のことをすきな秀才イケメンが
いろいろ懊悩するとか。

クイーンの若宮詩暢を演ってる
松岡茉優、超絶ジョーダマだな、とか。



でも、なんていうか。
大きな話の流れよか
そのなかの一断片に出てくるセリフとか情景
のほうが、印象が立ちすぎて。

あわよくば、このエントリーをとおして
「ちはやふる、マジおもしれえから
観に行かなきゃ、損するぜ」
ぐらいのことをアッピールしたいのに。

そうできる自信が微塵も出てこねえ。



表題のシーンは。

競技かるたって、
日本一になれば名人なりクイーンなり
(団体戦日本一の高校なり)
っていう称号が得られるわけだが。

世間的に、けしてメジャーなことじゃないし
名人なりクイーンになったからって
「名人(なり、クイーン)になったんすね」
以上のことは、あんまりない。

大金をせしめれるわけでも
国民的ヒーローみたく祭り上げられる
わけでも、ない。



あまつさえ。
名人なりクイーンなり高校チャンピオンに
なれるのは、ほんの一握りの一握りで

なれなかったら、それまで。



みたいな背景があって。
(で、合ってるんだろうか?)

太一だったか、誰だったかが
「すげえがんばったのに
負けたら、何が残るんだろう?
何の意味があるんだろう?」

的な疑問を持ったところで。
原田先生っていうかるたの師匠が
表題のことを言う。


つまり、意味のないことなんてない、と。



ふーっ。
説明ったらしいぜ。
その説明も合ってるかどうか、
はなはだ疑問だぜ。



「やってることに意味のないことは
ひとつたりとも、ない」
って、すげえキレイゴトじみてるが。

映画の冒頭。

その原田先生は名人戦に出て
周防って名人に完膚なきまでにやられる。

周防は現役大学生の天才カルター。
カルターって何だ?
いまテキトーにつくっちったぞ。



ふつう、競技かるたって。
最初の数音を聴いて取りにいくものなのに。
周防はその前段階、
音になる前の音を聴き分け、
誰よりも早く、取る。

周防にしかできない芸当。
(そうやってすげえ耳がいいことを
「感じがいい」っていう言い方をする)



で、原田先生はオーバー50歳。
たぶん、体力も視力も若い頃よか落ちてるし
膝に爆弾を抱えてもいる。

でも、現役のカルターとして
名人になる夢をまだ追いつづけてる。

絶対王者・周防っていう天才が立ちはだかってるのに
なお、じぶんの夢を追いつづけてる。



な、もんだから。
そういう原田先生から発せられる
「手触りは残りつづける」は
ものすごい、説得力を生む。

その説得力ってのは。
「(原田先生が)じぶんのここまでの
数十年におよぶ努力を肯定してやる」
とかそういう、甘っちょろいもんではなく。



でいて。
それが太一に向かって発せられたバヤイ。

ちゃんと「青春をぜんぶ賭けてきた」
太一に向かって発せられたバヤイ。

ある意味での甘っちょろさと
肯定感に満ちあふれてる。

その感じ。

ああ。
「甘っちょろさ」っていうか
同志感っていうか。



うーむ。

ろくすっぽシーンがおもいだせないうえに
じぶんの思い入れ存分に込みなもんだから
たぶんこれは、独りよがりすぎる解釈だ。

えーーーっ。
ここまで語っといて、そんなん!?



。。。



そのシーンをみていて。
原田先生のそこまでの背景とか
太一の必死な問いをとおして。

おれってば、じぶん大すきなもんだから。
やじるしをてめえに、向ける。
いやおうなく、重ね合わそうと、する。



生きるために、はたらいて金を稼ぐ。
その稼いだわずかな金で、
生活がやっとこさっとこ、まわってく。

その「はたらく」って行動は
生活をまわすための燃料を燃やしてるだけで
何が残るわけでもない。

「はたらく」じたいに、意味はあるのか?



もっというと、「ジョグ」。
走って楽しいとか
前より早く走れるようになったとか。

それはそれで楽しかったりうれしかったり
すんだろうが。
生きるに欠かせないものでもないし
残るものなど、なにもない。

そんな「ジョグ」に、なんの意味があるのか?

「楽しけりゃいい」って
ちょっと空虚すぎやしねえか?



ってところで。
「手触りは残りつづける。何年でも、何十年でも」

ちゅどーーーーーん!

そもそも、おめえ。
走ることに意味を求めてたっけか?
を、ともなって。

あと。
じゃあ、アレか?
空虚すぎる「楽しけりゃいい」って
そんなに、いけねえことか?
も、ともなって。



。。。



ここ最近の「マイブーム」っていうか
もはや、ビジネスじみてきたキクチの
「走る気がまったくなくなった」
「またちょっと、走る気が出てきた」

じぶんでじぶんに
「かまってちゃんもたいがいにせえよ」
わりとキツめにおもってもいるんだが。

そういう往復運動っていうか
けっきょく最近、また
「走りたいなあ」っておもえてきたのは

じぶんのなかに「走った手触りのよさ」が
じぶんの予想以上に残りつづけてるゆえ。



ということに気づいたら。

映画に出ているすべてのカルター。
主人公の瑞沢高校とか千早とか
相手の強豪校のひととか
読手とか原田先生とか

なんか敵味方かんけいなく
「みんながんばれ」的な気持ちになっちゃって。
「おれもがんばる」的な気持ちになっちゃって。

隣にいるムスメっこにバレないように、
ちょっと斜め下を向いて、目の端を拭いた。


瑞沢ふぁいとー♪( ´ ▽ ` )ノ♡
キクチもふぁいとー♪( ´ ▽ ` )ノ♡
きょうも元気にがんばろ~♫


ぽえむ、おしまい。