キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

「手触りは残りつづける。何年でも、何十年でも」(前)

映画『ちはやふる 結び』の感想。

っていうか、前エントリー。
映画館にいきました

出し抜けにそんなこと言われても、だよな。



映画を観るという文化を
基本的に持ち合わせておらず
映画じたいにまっったくノー興味のおれが
なんとなんと、「映画館にいきました」

前エントリーの表題を略さないと
そんな感じ。



そんなんなので。
「スクリーンで観る」ありがたさも
映画館でのルールやマナー
誰でも常識として知っていることが
ぜんぜん、理解できていない。



たとえば、いつだったか。
マラソン大会の応援に
たかしさんが「映画泥棒」のコスプレで登場。

ということがあったのに
「映画泥棒」じたいを知らなくて。
映画館ではじめて見たとき
「あ、たかしさんのやつだ!」
っておもったほどだ。



そんな
「おれ映画観ないんすよアッピール」
なんかどうでもいいし。
何に対する何のアッピールかイミフだし。

このエントリーで言いたいこととも
まったく関係ないばかりか
話の枕にもなりゃしねえ。

イミフ全開なり。



そして、たぶん。
『ちはやふる 結び』の感想ならば
ワタナベさんのやつがすげえ秀逸で。

その向こうを張って、ナドト、
大それたことがでけるホドには
まだ、おれもバカが蔓延してない。

こんなの(↓)。
「結び」は「ちはやふる」シリーズ映画の三作目。この「結び」が最終作品。だけどサブタイトルの「結び」は必ずしも「終わり」を意味しない。

1000年前の古人が感じたことが変わらず現在に通じるのは「そういう」感情が「結び」ついてきたから。「結び」つこうとしてたから1000年前と現在は結果、結ばれてるんだね。届いてる?届いてるよ。結ばれてんのは空だけじゃないよ的な。
どんな映画かはさっぱしわからんとしても
ほざいてることがあまりにも鋭敏すぎて
もはや、嫉妬すらしないじゃん。

あと、いらねえ情報的には。
「ちはやふるスポ根説」ってワタナベ理論に
全面的に首肯してて。

なにしろ、すげえむかし。
おれもこんなん書いてたんすよアッピールっ。
ドラゴンボールとドカベンとキャプテン翼の間(2012/01/10)



。。。



『ちはやふる』ってのは
百人一首を題材にしてるだけあって(?)
言葉が、とってもセンシティブ。

たまにその「いいこと言ったでしょ感」が
ちょっとあざといかな()
って映らなくもないが、なんというかそれでも
「おじさんは、あえて乗せられちゃいますよ」
って見て見ぬフリしちゃうね。

みたいな感じだ。
ん? どんな感じだ?



そんなわけだから。
言葉がひとつひとつ、ていねい。
(そして、たまにあざとい)

前編の映画のやつだと。
青春ぜんぶ懸けたって強くなれない? 懸けてから言いなさい
なんてのもあるし。


千葉のほうのドラえもんは
こんなことをつぶやいてた。



いちおう補足しとくと。

「チャンスにドアノブはついてない」は

チャンスのドアってのは、
じぶんでは開けることはできないから。
誰かが開けてくれたとき
迷わず飛び込んでいけるかどうかが大事だぜ。
って意味(合ってる?)。


「運命戦は、運命ではない」は。

残り札2枚で、自陣のを読まれたほうが
勝てるってきょくめんが「運命戦」で。

まあ、読まれるかどうかって
ぶっちゃけ運でしかないんだけど。
どんだけ、じぶんのほうを読まれるに至る
勝負勘を磨くようなことを積んできたか。

「勝負勘」ってのは、想いだとか、
場の空気の持っていき方も含まれるから
全部が全部、運だけじゃないよね。
ということ。

でいいんすかね?

これ以上ていねいに説明しようとすっと
クソ長くなるので、はぶいちゃう。



表題。
「手触りは残りつづける。何年でも、何十年でも」

は、『ちはやふる 結び』のなかで
あとからなんか勝手にすごくジワっちゃった。

まず「手触り」って言葉遣いの
センスにうなっちゃうんだが、ともかく。



と、ここでは
とりあえずそうということだけを開陳しておき。
文脈も、何でジワったのかも措いたまま
長くなったので。つづく。

(ほんとうにつづくかどうかは、知らん)