幼稚園の同級生で、難病と闘病中なコがいて。
すげえかいつまんでいうと。
4年前に病気であることが判明して。
実はそれが「濃厚に余命1年ぽい病気」だったことがわかり。
でも、4年も経っちゃってるから
「いまも生かされてるじぶん」みたいなことを考え。
今月に入ってからはじめたブログには。
その闘病のようすを記して、
おなじ病と闘うひとの参考になったらいいな。
みたいなことが、綴られている。
ってことが、Facebookを通じて流れてくる。
(上記、おれの勝手な解釈なので、
ディテールがあってるかどうかは、知らん)
*
カノジョとは、「お互いの存在や名前は昔から知ってる」
的な、ごくほっそい面識しかなくて
何年か前の同窓会で話したことあるって程度で。
SNSでも直接はつながってないんだが。
「ともだちのともだち」にはけっこういて。
ブログをはじめたってのも
闘病してるってのも
やけにさいきんTLに流れる
「ともだちがシェアした投稿」で知った。
で、距離感がゼツミョーというかビミョーなので。
いまさらFBでともだち申請するのもナンだし
いいねとか押下するのも、ナンだしって
ってんで。
「ともだちがシェアした、ブログ更新通知の投稿」
があると、リンクをたどって読んではいる、ぐらい。
*
いや、わかってはいる。
書いたブログにコメントとかあれば、すっげえうれしいということ。
じぶんの投稿にいいねがあれば、すっげえうれしいということ。
それがたとえ、(カノジョとおれ程度の)うっすいつながりであっても。ということ。
逆に、「そんぐらいのうっすいつながりなヤツにも伝わってる」ってわかると、なおさらすっげえうれしい。おれなら。
*
ここから、言いかたがすごくむつかしくって。
表現が適切じゃないというか
穏当を欠くものになってるかもしんないが。
つづける。
*
何ていうか。
これはじぶんがじぶんの性質でほんとうにやな
スゴクめんどくさい部分というか。
「ここで安易に反応するのは、よくない」
とおもってしまう。
とはいえ。
とくだんゴタイソウなポリシーがあるわけじゃなく
「動いたら、負けだ」的な、ワカワカメな
マジでバカなんじゃねえかってノリもあったりして。
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ので、ブログにコメント投下するとか
SNSにしらじらしくともだち申請するとか
ってことはしないし、するつもりもないし
このエントリーにも、そのブログのリンクを貼らない。
(「っていうネタをここで書いてんじゃねえか!」は措く)
ほんとうにめんどくさい性質だとおもう。
ただ、何らか感じることはある。
たとえば。
「ブログ」というキーワードに際して。
「おれはのうのうと
こんな中身のまったくない、ふざけた
ブログを書いてていいんだろうか?」
とか。自問する。
*
そして。
こんなクソふざけた、中身カッスカスなブログを書いてても
「いいじゃんか」と、自答する。
「いいんだろうか? と考える自体、とんでもなく筋違いじゃねえか」と、自答する。
*
別にこのクソ辺境が、すげえマジメになろうが
いままでどおりだろうが
カノジョの人生にはさざ波ほどの影響も、ない。
関係が、ない。
もし、カノジョのブログにおれが何か感じても
それは、こっち側で勝手に処理すりゃいいことで
わざわざ表に出すひつようは、ビタ一文ない。
(ただし、逆に
「クソ辺境に出すべきだ、出してええ!」
とおもったらば、出しゃいいじゃん
てのも勝手で)
*
何か、こういうことにぶち当たるたび
今回のこういうののように
「表明量と想いの量を一致さす必要の是非」
を考える。
ときに不等号の向きが変わったり
ニアリイコールでむすぶときがあるものの
導き出すケツロンは、だいたいいっしょ。
でいて、いちいち。
「そのケツロンはほんとうに妥当なんだろうか」
と考えては、いる。
「表明量が過剰すぎるようにだけはなってはいけない」
とか、念頭におきつつ。
*
こういうの、どうおもう?
じぶんがカノジョ、あるいはおれだったら?