キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

こんなふざけたブログを書いてていいものかといっしゅん立ち止まって、「いいんです」ってひらきなおる。カビラなていで

幼稚園の同級生で、難病と闘病中なコがいて。

すげえかいつまんでいうと。
4年前に病気であることが判明して。
実はそれが「濃厚に余命1年ぽい病気」だったことがわかり。
でも、4年も経っちゃってるから
「いまも生かされてるじぶん」みたいなことを考え。

今月に入ってからはじめたブログには。
その闘病のようすを記して、
おなじ病と闘うひとの参考になったらいいな。
みたいなことが、綴られている。

ってことが、Facebookを通じて流れてくる。
(上記、おれの勝手な解釈なので、
ディテールがあってるかどうかは、知らん)



カノジョとは、「お互いの存在や名前は昔から知ってる」
的な、ごくほっそい面識しかなくて
何年か前の同窓会で話したことあるって程度で。

SNSでも直接はつながってないんだが。
「ともだちのともだち」にはけっこういて。

ブログをはじめたってのも
闘病してるってのも
やけにさいきんTLに流れる
「ともだちがシェアした投稿」で知った。

で、距離感がゼツミョーというかビミョーなので。
いまさらFBでともだち申請するのもナンだし
いいねとか押下するのも、ナンだしって
ってんで。

「ともだちがシェアした、ブログ更新通知の投稿」
があると、リンクをたどって読んではいる、ぐらい。



いや、わかってはいる。

書いたブログにコメントとかあれば、すっげえうれしいということ。
じぶんの投稿にいいねがあれば、すっげえうれしいということ。
それがたとえ、(カノジョとおれ程度の)うっすいつながりであっても。ということ。

逆に、「そんぐらいのうっすいつながりなヤツにも伝わってる」ってわかると、なおさらすっげえうれしい。おれなら。



ここから、言いかたがすごくむつかしくって。

表現が適切じゃないというか
穏当を欠くものになってるかもしんないが。
つづける。



何ていうか。
これはじぶんがじぶんの性質でほんとうにやな
スゴクめんどくさい部分というか。

「ここで安易に反応するのは、よくない」
とおもってしまう。

とはいえ。
とくだんゴタイソウなポリシーがあるわけじゃなく
「動いたら、負けだ」的な、ワカワカメな
マジでバカなんじゃねえかってノリもあったりして。



ので、ブログにコメント投下するとか
SNSにしらじらしくともだち申請するとか
ってことはしないし、するつもりもないし
このエントリーにも、そのブログのリンクを貼らない。
(「っていうネタをここで書いてんじゃねえか!」は措く)

ほんとうにめんどくさい性質だとおもう。
ただ、何らか感じることはある。

たとえば。
「ブログ」というキーワードに際して。

「おれはのうのうと
こんな中身のまったくない、ふざけた
ブログを書いてていいんだろうか?」

とか。自問する。



そして。

こんなクソふざけた、中身カッスカスなブログを書いてても
「いいじゃんか」と、自答する。
「いいんだろうか? と考える自体、とんでもなく筋違いじゃねえか」と、自答する。



別にこのクソ辺境が、すげえマジメになろうが
いままでどおりだろうが
カノジョの人生にはさざ波ほどの影響も、ない。
関係が、ない。

もし、カノジョのブログにおれが何か感じても
それは、こっち側で勝手に処理すりゃいいことで
わざわざ表に出すひつようは、ビタ一文ない。

(ただし、逆に
「クソ辺境に出すべきだ、出してええ!」
とおもったらば、出しゃいいじゃん
てのも勝手で)



何か、こういうことにぶち当たるたび
今回のこういうののように
「表明量と想いの量を一致さす必要の是非」
を考える。

ときに不等号の向きが変わったり
ニアリイコールでむすぶときがあるものの

導き出すケツロンは、だいたいいっしょ。

でいて、いちいち。
「そのケツロンはほんとうに妥当なんだろうか」
と考えては、いる。

「表明量が過剰すぎるようにだけはなってはいけない」
とか、念頭におきつつ。



こういうの、どうおもう?
じぶんがカノジョ、あるいはおれだったら?