映画「蔦監督」の感想のつづき。
っていうか、きょうのエントリー。
書きかたがむつかしい。
イチャモンチックというか、
ネガティブ発言めいてるが
映画「蔦監督」とも、
上映していた映画館とも関係ない。
ジャストライク・ただの偏見。
って、エクスキューズから入るとかね。。。
*
映画を観にいったことを
映画ブログでもないのにわざわざ書く。
のは、「蔦監督」につおく魅かれた
ってのもロンのモチ、あるが
きょくたんに映画を観ないから。
ということもある。
おれが映画を観ないのはそもそも、
「映画という文化にキョーミがないから」
とおもってたのだが、そうではないということに
今回、気づいた。
「映画館がすきではない」(表題)
もっとていねいに言うと
「知らないひとと
おんなじ空間でおんなじものを見る
間(ま)の持たなさがすきではない」
「じぶんのペースで作品を楽しめないから」
なんである。これはまあ
映画にかぎらず、演劇とか講演でもそう。
*
端的にいうと
おなじ館内にいるひとの反応がおかしい。
とか、そういうの。
「何でこんなつまらないとこで笑ってんの、みんな?」とか。
あるじゃん、そういうじぶんの感覚とのズレ。
あっ。
そもそもおれの感性がとてつもなく鈍い
あんど、あさっての方向にズレてんだろうがバーカ。
って前提は措いても。
*
「そうやって、ひとと感覚がずれてるおれ、かっけえ!」
とか言いたいんではない。くれぐれも。
そういうときひたすらとまどう、んである。
*
たとえば以下、おれの思い入れやらを
勝手に詰めこんだ妄言にすぎないので。
あまつさえ、受け手がどう感じるかは
ひとそれぞれ自由なはずで。
じぶんの感じかたが正しい。
などとはビタ一文おもってないし
じぶんと違う感じかたをしたからとて
それをどうこういうって気持ちは、
さらさらない。
エクスキューズはこんくらいでいいかな。
*
蔦監督の名言に
どうか皆さん、お願いします。私を日本一の監督にしてください!
というのが、ある。
あ、上のリンクはこの辺境クソブログ内記事へのものね。
この発言は予告編の動画にもあった。
冒頭だ。
蔦監督は動画にあるようにコレを
おちゃらけた感じでおっしゃってる。
映画の本編でもこれが流されて。
会場からどっと、笑いがおきた。
そんななか、おれは。
蔦監督の悲愴な決意表明に、
号泣しそうになるのを必死で抑えてた。
むろん、この映像はこれまで
いろんなところで流れてるので
みるのははじめてではない。
*
このシーンは、1982(昭和57)年夏。
広島商業との決勝戦をひかえた
朝のミーティングでのこと。
*
さかのぼること、8年前。
1974(昭和49)年。
池田高校は春のセンバツで決勝戦に進出した。
蔦監督にとって、2度目の甲子園。
たった11人の部員でもって
ということが話題になった
いわゆる「さわやかイレブン」のときである。
決勝戦前日夜のミーティング。
蔦監督は生徒にこう、声をかける。
(おれの記憶ベースなので、細部はテキトー)
「あしたは勝っても負けても、旗がもらえるけん」
*
センバツは優勝校には優勝旗が
準優勝でも準優勝旗が授与される。
「ここまで来たんだから、優勝でも準優勝でも
大舞台でじぶんたちの野球をおもいっきりやろう」
的なニュアンスでおっしゃったんだろう。
そして決勝戦では、兵庫の報徳学園に惜敗する。
甲子園準優勝。
いうまでもなく、リッパな成績。
ただ、選手はもちろんのこと
いちばん勝ちたかったのは蔦監督なはずで。
たぶん、決勝戦で負けていちばん悔しかったのも
蔦監督なはずだ。
その5年後。すなわち
「皆さん、お願いします。私を日本一の監督にしてください!」
の3年前、1979(昭和54)年。
池田高校は、今度は夏の甲子園で
決勝戦に進出するも、箕島高校に惜敗する。
2度目の準優勝。
*
ちなみに1。
このときの相手、箕島高校は
その年の絶対王者? 大正義? で
池田高校に勝ったことで春夏連覇
という偉業を達成した。
3回戦では「最高試合」といわしめた
あの延長17回の星稜戦を戦ってきている。
そういう、伝説の存在。
*
ちなみに2。
池田高校が準決勝で戦ったのは
牛島、香川という甲子園史上屈指の
バッテリーを擁する浪商高校。
牛島投手についてよく知らなければ
「牛島 伝説」でググれば
高校時代のこと、プロ入り直後の稲尾とのこと
など、ものすごい伝説が出てくる。
そんくらいの名投手だし。
キャッチャーの香川は
あの「ドカベン」になぞらえられたぐらい
強肩豪打(超ぽっちゃり)の名選手。
*
って、こんな説明的な文章。
いったい誰に向かって言ってんだろう?
*
話をもどすと。
いや、もう1ケ、ちなみに3、いいすか?
蔦監督は、「勝てない」ということを
じぶんの運命であるかのように考えていた。
池田高校に赴任してから甲子園に出るまで20年。
あと一歩のところで負けつづけ
甲子園で2度、決勝戦で屈した。
1980(昭和55)年。
逸材が池田高校に入学する。
畠山というピッチャーは小学生のころから
徳島県下に名をとどろかせており
畠山が池田に来たことで蔦監督は
「3回は甲子園に行ける」
と踏んでたらしい。
1学年下の「蔦監督の最高傑作」水野雄仁も
「あの畠山がいるから」という理由で、
阿南から遠く離れた池田への入学を決めた。
ぐらいの、逸材・畠山。
(水野が池田入学を決めた理由が
それはそれですごくおもしろいんだが
この話とは関係ないので、あえて措く)
*
ところが。
逸材・畠山を擁しても、池田は勝てない。
1年の夏、秋(翌春のセンバツ)。
2年の夏、秋、と甲子園を逃しつづけ
残るはラストサマー、1回となってしまった。
蔦監督は言う。
ワシの名前は「文也(ふみや)」
「ひふみ」の「ふ(二)」と「み(三)」。
畠山の名前は「準(ひとし)」。
準優勝の「準」
つまり永遠に一番にはなれないということだ!
っていうか、畠山。
超絶とばっちりwwww
*
おれ、すげえな。
知りあいでもねえのに。
本とかで読んだだけのことをコウ
さもてめえが観てきたかのように、
ぺらっぺら、ぺらっぺら。。。
*
あれだな。
あ、いいや、とりあえずつづける。
*
逸材・畠山、最後の夏。
池田高校はようやく甲子園出場をキメる。
そして勝ち進み、深紅の大優勝旗まであと1つ。
というところまでコマを進める。
「東の(早実)荒木(大輔)、西の畠山」
と並び称されてたとはいえ、
池田高校の勝ち上がりは、それほどラクなものではなかった。
(いきなりえばるわけではないが
これはリアルタイムでテレビで観てた)
「山びこ打線が打ちまくり、
スーパーエース畠山が剛腕でもって
相手をねじ伏せる」
なんてことはなくて、たいがい
「やっとこもぎとったリードを
畠山が粘ってしのぐ」的な勝ち上がりだった。
前評判は高いっちゃ高いケド
「チームの支柱、赤木の出来がカギ」
って、『スラムダンク』の湘北
みたいな感じだった。
(リアルタイム的な感触)。
*
で、早実の荒木大輔をめった打ちにして。
準決勝の東洋大姫路戦も
「粘ってしのぐ」的な勝ちかたをして。
*
そういうことをすべて経ての
決勝戦、当日。
というわけ。
池田高校の教師・監督となって30余年。
(翌年には定年退職という年齢)
2度も決勝戦で屈してきた。
これが最後のチャンスかもしれない。
どうしてもどうしても、日本一になりたい。
あまつさえ。
マスコミもカメラを構えて注目してる。
もろもろ踏まえての。
「皆さん、お願いします。私を日本一の監督にしてください!」
っていうことなんですわな。
*
なので、上述したとおり、
逆におちゃらけてみせる蔦監督の言葉の重みに
号泣しそうになるのを必死で耐える
ことしかできなかった。
「熱闘甲子園」では、
池田高校が決勝戦を勝利したとき
「池田高校の夏、蔦監督、59歳の青春」
って言ってた。(言葉の正確さ、テキトー)
おれ、ショージキ、その誇大な表現
あんますきじゃねえんだが。
(コレ、言う必要なくね?)
「甲子園はキヨハラのためにあるのか」とか。
(コレも、言う必要なくね?)
でもその。
「池田高校の夏、蔦監督、59歳の青春」
って、それまでの積み重ねを
この実況のひと、よくわかってんだよね
って、おもった。
*
あのう。アレだな。
この一連のくだりって。
池田高校への思い入れがあまりにもつおすぎて。
よけいなことを挟んじゃったのは、よけいだな。
抑制って大事だ。
つくづく。
こういう、思い入れたいときホド。
反省。
*
ただ。
イチャモン的にコウ、カマしたのは。
この映画「蔦監督」を観にいったひとって。
いわゆる「畠山クーン、ステキー!」
「江上クーン、カッコいいー!」
的なひとはたぶん皆無で。
最低でも、おれレベルには
蔦監督なり池田高校に思い入れがあるはずで。
それは、おれが訪れた「木曜ていうド平日」
に劇場に足を運べるていどに
社会的余裕(?)のあるひとで。
じっさい「おれ、ここで最年少?」ぐらい
入場前のロビーはそういう年齢層だった。
つまり。
「皆さん、お願いします。私を日本一の監督にしてください!」
って蔦監督がおっしゃったうしろに
なにがあるかはトーゼン、知ってる。
っていうひとの集いだったはず。
*
そこで、ああいうふうにどっと笑いがおきる
っていうことに、
なんかこう、いわくいいがたい「?」
を感じた、ごくじぶんかってに。
というわけですわ。
「ここで感極まるおれ、ダメなのか?」
「これがオトナのよゆう、楽しみかたってもんなのか?」
って、おもっちゃった。
というわけですわ。
*
コレ、映画に対するネタバレになってたら
ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ。
でもこう。
笑いのポイントって、大事だよね。
きのうの話とリンクしてんだが。
この映画の冒頭で
キミ子夫人が梶田投手の話をしてて
中盤以降にその梶田投手が出てくるんだが。
それはただの
「集まったOB5人中のひとり」ってあつかいで
たいして「春のセンバツを制した小さな大エース」
という紹介もなく、ふつうにOBへの
インタビューとして流されてる。
というところに、ある種の凄みを感じた。
梶田の隣にいたひとは糸永でしょ。
背筋を痛めた、糸永。
そんでもって。
梶田・糸永のトイメンでよく喋ってたひとは
あの桑原でしょ。
それでそれで
桑原の隣にいたのって、桜間でしょ。
延長14回の浜松商戦を投げた
徳島大会無失点のエース。とか。
糸永も桜間もおっさんになりすぎてて
さいしょ、わかんなかったわ。
とかもろもろは、措いても。
あの片山投手はどうして出てこなかったのー?
も、措いても。
*
そんなこんなで。
「映画『蔦監督』」。
観に行く1ヶ月前からwktkしつづけた甲斐があった。
ただの「蔦文也&キミ子ノスタルジー」
だけじゃなくって、おれもがんばろう
的なバネをもらえた。
そういうの、とても大事。
池田高校が次、甲子園に帰ってくるのはいつだろう?
そう遠くない気もするけど
今度こそ、その姿を「おれの初甲子園」
ってことにしようって、おもった。
おもいましたとさ。
ちゃんちゃん。