キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

マラソンをおれがすきな理由(明日やればいいことは何もきょうやらなくっていいわけで。みたいなこと)

マラソンを走ることが、すきだ。

超一流のせんしゅたちが走ってるさまを
テレビでみていることもおんなじぐらいすきだが。

じぶんが走ってることもおんなじぐらい、すきだ。


って冒頭から、すきすき言ってるわりに。
舌の根も乾かぬうちに。

すきかきらいか、どうでもいいか、もはやわからない。
ぶぶんも、ある。

6年弱、断続してきたので。
たまーに、いぶかしむ。
「じぶんは、ほんとうは、走ることがきらいなんじゃないか?」



思考がいろんなとこを行きつ戻りつして。
そのうち、考えるのもめんどくさくなって。
けっきょく。
「やっぱ、すきってことにしとこう」
「おれ、すきなのかも」
に、帰結する。

そういう意味では
結婚生活、ときわめておんなじ。



。。。

なんだよ「きわめておんなじ」って。
でもそういう、帰結する。



すきな理由は、いくらでも考えられる。

おんなじくらい。
きらいな理由も、いくらでも考えられる。

ので、わりとどうでもいい。

どこに帰結したか。
というジジツだけがジツは重要で。

「きらい」に帰結したら、やめちゃえばいいじゃん。
ってだけのこと。



マラソンをおれがすきな理由は。
「おれがマラソンをすきな理由は」でも、どっちでもいいんだが。

結果がわりとピュアに真実な、ところ。
その責任がピュアに、じぶんじしんにしかない、ところ。

そういうことって、
ふだんの生活でそんなにないよね。
な、ところ。

ふだんの生活。

くらしだって、仕事だって。
責任の所在ってのは、わりとあいまいで。

いざとなりゃ。
何らか誰か、手を差し伸べてくれたりすんじゃん。
で、けっきょく。
なんとかなっちゃったり、すんじゃん。

ってことと、真逆。



マラソン。

結果がいいときはともかく。
よくないときってのが、わかりやすくて。

よくなかった理由はいくらでもおもいつく。

「ここをこうやりゃよかった」

たとえば。
前半とばしすぎた。
後半のキツイときに、日和っちった。
としても。

前半とばしすぎたのは、何らか理由があって。
そのせいで、後半へばっちった。

のは、ただの結果で。
「よくなかった結果」に対して責任を負えるのは、じぶんだけ。

後半キツイときに日和ったのも、何らか理由があって。
「もうちょっとがんばれたかな」
とおもったとしても。

それはただの結果で。

そのときはそのときで、それなりにがんばってたはず。
ただ、「よくなかった結果」に対して責任を負えるのは、じぶん。

しかいない。



かたや。
「でも、こうがんばれた」
って救いもある。

そこに救いを見いだせるのは、じぶんだけだし。



対外的にエクスキューズをする。
「さいきんおもうように練習でけてなかったし」
だとしても。

さいきんおもうように練習でけてなかった、からのきょうの結果。
に責任を負えるのは、じぶんしかいない。

あるじゃん。
対外的なエクスキューズがどんなにそれらしくても。
それでほんとうに納得できてるのかは、
やっぱりじぶんにしかわからない。

ところ。

エクスキューズが対外的にうまくハマればハマるほど。
逆にじぶんに正直に向き合える。
じぶんはちゃあんと、わかってる。

おれは別にかまわないケド、KIKUCHIはどうおもうのかな?

って、ところ。
YAZAWA。



きょう、やれることはきょうやる。
きょう、やらなくてもいいことは、明日やればいい。
明日、やらなくてはいいかもしれないけど、きょうもやっとく。
明日、やらないだろうし、きょうもやらない。

4ヶ月後なんか、まだまだ先だし。

なんだが。
どういうパターンにせよ。

4ヶ月後、の結果に対する責任は
じぶんにしか、負えない。

じぶんにだけ負うことが、でけるっ。

わかったから。
わかったから、きょうはきょうのじぶんがでけることだけ、やっとく。
負いますってばだからさ。

でも、見てろよ。
きょうのじぶんと明日のじぶんと4ヶ月後の、じぶん!
っていっちゃってみたりなんか、しちゃったりしてね。



マラソンをおれがすきな理由。
あるいは。
おれがマラソンをすきな理由。
そういうとこ。

みたいなんだぜぽえむ。