キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

自分の意見とか経験とか

地震から1ヶ月あまり。
これまでになく、他人の意見を聞いたり価値観に触れてきた。

直接、間接を問わず。
こんなご時世、おれにかぎったことではない。だろう。

そんな中、おれがおもったのはただ1つ。
この機会に一度、自分の価値観、ものの見方をすべて捨ててしまおう。
ということ。
いろいろな人がいろいろな意見を言っている。
でも、よく聞いてみると、それらはほとんど
「どっかで聞いたこと」
だったりする。

もっと言うと、
どっかというのは
メディアで誰かが言ってたこと
だったりする。

それがほんとうに自分の意見で、
たまたま同じになってしまうこともある。
それはそれでいい。

ただ、知らず知らずのうちに誰かの意見を自分の意見と認識して
自分の意見としてしまうことは、あんがい恐ろしいことにおもえる。

そして、
もっともらしかったり、
いかにも正義ぽかったりすることにこそ、
「あんがい恐ろしい」のタネはひそんでいる。

他人はともかく、
おれ自身がそうなってたら、こりゃヤバい。

だから一度ぜんぶ捨てる。

もう1つ。

齢37になりなんとすると、
ちょっとは人生経験も積んできている。

ある物事への対応を、過去の似た経験に照らし合わせておこなうこともしばしば。
「つまり、こういうことだよね」
といったぐあいに。

物事に直面した瞬間、
意識的にしろ無意識的にしろ、なんらか
そういうカテゴライズをしている。

きのうだかおとといだったか、
それを意識した瞬間があった。

こりゃヤバい、と。
だから一度ぜんぶ捨てる。

しょせん、にんげん1人ごときの経験なんて、
狭く乏しいもんだ。
そんな縛りを入れたら、大切なものを見落としちゃうかもしれない。

だから、
自分のあらゆる行動や考え方を
「なんでそうなのか」
いちいち考える。

そんなしちめんどうくさいことが、
いまこそひつようなんじゃないかとおもう。
少なくともいまのおれには。

そのプロセスを経て、いままでと同じ行動をとるなら、
それはそれでいいし、
まったく違った行動をとるようになるなら、
それはそれですごくステキなことになる気がする。

やるならいましかねえ、なんである。
西新宿の親父だけじゃなくって、
狛江のスチャラカヤローでもそうなんである。

ひさびさのエントリーな上にひどく抽象的だが、
おもっちゃったんだから、しようがない。

人生の師匠とおれが勝手に決めている人が、だいぶ前に
「厄年まであがきつづけたら、厄年を越えて急にラクになった」
とおっしゃっていた。

おれはまだ厄年を越えたことがないのでわからんが、
そうやってとりあえず、厄年まであがいてみようかとおもう。