キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

身近にもわりと多いので、大きい声では言いづらい

命名訴訟:「玻南」不受理は適法 最高裁、両親の抗告棄却

玻南とかいて「はな」と読ませたいらしいんだけど、
「玻」が人名漢字外だからダメなんだとさ。


子の名付けは、自分のすべてのセンスが試される作業。
オレも子どもが産まれたときに実感した。

子どもは一生その名前を背負って生きていく。
玻南とか悪魔とかいうトンデモ名でなくたって、
人格形成にそれなりの影響をおよぼす。

「ヒロシ」なんつうごく平凡な名前だって、
先頭がピになったり、
ビーバップになったり、
3年目の浮気になったりして、軽いからかいの温床となりうる。

以下、カンペキに偏った好みと、ジマンだけの記述に終始する。



オレはニンゲンの赤ん坊で
うなるようなナイスセンスの名前に出合ったことは、
ほぼない。

(身近に、こじゃれた名前をつけてる人がけっこう多いので、
大きな声じゃいえないんだけどね)

名前をつけるのって難しい。

そりゃ、自分の子なんだから、
思い入れがひとしおなのはアタリマエ。
でも、そんな思い入れ、
第三者からすりゃしょせん、
「だからどーした」「どーでもいい」
で囲われた枠のなかのデキゴト。

親の思い入れだったり、
思想だったり願いだったり凝りようだったり、
教養のひけらかし度だったりが、
強ければ強いほど、
残念度が高まってしまうもんである。

「すげえ面白かったエピソードを話してくれてんだけど、
コーフンしすぎなのか話しながら笑っちゃって、
ちっとも面白要素が伝わらないどころか、
こちとら不愉快ですらある」
みたいなことと、ニアリイコール。



5年半前に娘が産まれたとき、
オレも途中までは肩の力を入れまくっていた。
「おのれのセンスを見せつけたるんじゃい!」と。

桃子とつけようとして、
「でもコイツが将来、小学校で
『ラ・ムー』とかいじめられたら
かわいそうだしな」
とか、本気で心配して断念した。

近未来の小学生がラ・ムーを知ってるかどうかは、知らん。



けっきょく、
おれはムスメにごく平凡な名前をつけた。
条件は、

○わかりやすいこと。
○女の子だからかわいらしいこと。
○「○○ちゃん」と呼べるものであること。

1つ、親のエゴを加えるとすると、
○漢字の形がシンメトリー(左右対称)なものを遣った。

ああでもないこうでもないと
いろんな名前や、それに当てる漢字を書いたり、音読したりするうち、
だんだん固まってきた。

そこで、あることに気づいた。
最後に「子」をつけると、音のうえでも表記のうえでも収まりがいい。
ビシッと締まるんである。



という成り立ちの、ごく平凡な名前。

初宮参りや保育園で、娘の同級生の名前リストがくばられる。
そこでいまだに「子」で終わる名前を見たことがない。

いまや、
悪魔なんてつけなくたって、
人名漢字外を遣おうとしなくたって、
「愛」と書いて「ラブリ~」なんて読ませなくたって、
「バルバドス」に漢字をムリヤリ当てたような苦労をしなくたって、

最後に「子」がついてるだけで、
リッパに個性的な名前になっちゃってるんである。

オレのネーミングセンス、なかなかじゃね。
とひそかにほくそ笑んでいる。