キクチヒロシ ブログ

絶滅寸前の辺境クソブログ。妄想やあまのじゃく。じゃっかんのマラソン。

フィギュアスケートの見方

きのうの世界選手権、
浅田真央のフリーの演技を見て気づいたこと。

フィギュアスケートを観るとき、
点数とか順位に惑わされる必要はない。

自分がいいとおもったらいい、でいいということ。
オレは選手でもなければ採点者でもない。評論家でもない。
ただのやじ馬なのだ。

だからこの技はどうだとか、
この点数はいかがなものかとか言うのは
ちと違うんである。

まして
誰の得点は高すぎるとか、
勝手に腹を立てるのは、完全におかど違いなんである。

きのうの浅田真央のフリーは、
オレのなかでは群を抜く神演技だった。
少なくとも、
オリンピックとか
テレビ放映されてる主要な試合しかみていないという、
オレのフィギュアスケート観戦経験では。

いい齢して、感動のあまり泣きそうになっちった。
しょせん「小娘の踊り」ごときに。
こんなのはじめてだ。

それでもきのうのフリー演技じたいは、1位じゃないらしい。

ということは、オレは、
回転不足でダウングレードされちゃうジャンプを「カンペキだ」とおもい、
足りないと言われる表現力を「この上ない」とおもい、
フリー1位ではなく、2位の演技を「神演技」とおもったのである。

1位の演技を見てもどうともおもわなかったのに
しょせん、2位でしかない演技を見て
泣きそうになるほど感動しちゃったんである。

つい昨日までは
おかしいのは世界標準のほうだとおもっていたのだが、
こうなると、おかしいのはどうやら全面的にオレのほうだと
認めざるをえない。

ざるをえないんである。

バンクーバー五輪とトリノでの世界選手権を通して、
オレは自分の感性が
芸術を解する世界標準、
あるいはフィギュアスケートの世界標準とは
ズレていることを知った。

そのくせフィギュアの採点基準を勉強しようだとか、
感性を磨こうといった向上心はビタ1文ない。

としたら、観戦を楽しむためには
自分の心の動きに正直になるしか
テがないのである。