『坂の上の雲』やっと3巻のアタマ。
と、どうも停滞気味の読書だが、
表題の言は30ページにある。
正岡子規が臨終を迎えたあとに、
キヨシさん(高浜虚子)が思い出した、
ノボさん(正岡子規)のうた。
正岡子規と、
ここにこれを持ってきた司馬遼太郎に
嫉妬し、悶絶した。
*
世の人は四国猿とぞ笑ふなる
四国の猿の子猿ぞわれは
が、うたの全容。
そのあとのセンテンスが、
ほんとうはおれなんかの陳腐な
解釈や感想を必要としないぐらい
言い尽くしているとおもうので、引用。
子規は、自分が田舎者であることをひそかに卑下していたのだが、その田舎者が日本の俳句と短歌を革新したぞという叫びたくなるような誇りを、この歌にこめている。子規は辞世をつくらなかったが、かれの三十五年の生涯を一首があらわしているようにも、虚子にはおもえた。
なんだが。
どうもオレ自身に抑制が利かないので
陳腐な解釈や感想をつらねる。
まず、引用してあらためてだが
「三十五年の生涯」。
ピクリと動く。
「ああ、あと2年で宮沢賢治かあ」
誕生日を迎えたとき感慨にふけってた
齢35のオレ。
は、さておいて。
自分を卑下しているようで、実は矜持のカタマリ。
という、男のメンドクサイ意地っぱり方が、
なんともカッコいい。
*
芸術的なセンスが皆無のおれにとって、
短歌なんて言われても、敷居が高すぎる。
正岡子規のこのうたも、
その完成度だとか、歌壇における評価とか
難しいことはわからない。
言葉遣いもきわめて平易だ。
でも、それだけに
言わんとしていることはひと目ですぐわかるし
ググッと引き寄せられる何かがある。
とにかく「子猿ぞ」「われは」だ。
*
たぶんに知識不足の負け惜しみながら。
つまり、けっきょくのところ、
「平易&すぐわかる」がいちばん崇いんじゃないか。
おもう。
難しいことや、自分の心情を、
難しい言葉を遣って説明するのは、
実はごくカンタンなこと。
しょせん、言葉遊びの延長線上でしかない。
でも、易しく優しい言葉でもって
「言い表す」のは、きわめて難しい。
それができる人こそが、
「真にアタマのイイ人」であり、
「芸術を解する人」だと、あらためて気づかされる。
*
自分もそうなりたいし、今すでに
そうでなければならないはず。
ナドトいいながら、
このエントリーでも平気で「矜持」だの「平易」だの
安易な表現を遣うシマツ。
後悔しているが、あえて直さないでおく。